藤原宮跡 ~ 大和三山に囲まれる旧都(平城京遷都前の都) ~|画像たっぷり 奈良

奈良県中部
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「藤原宮跡」は、持統天皇によって進められた藤原京の宮殿が置かれた場所で、現在は、広い野原がひろがる特別史跡となっています。
東に天香具山、西に畝傍山、北に耳成山の大和三山に囲まれ、「菜の花」や「蓮」「コスモス」など、季節ごとに花で彩られ、それぞれの開花時期には多くの人が訪れるスポットです。

藤原京と藤原宮の概要

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藤原京について

694年(持統8年)、持統天皇により 飛鳥京<飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)> から藤原京に遷都されました。わずか、16年という短い期間の都でしたが、本格的な都城が初めて造られた地です。また、日本が律令国家としての体裁を整えていく、とても重要な時代の都です。

藤原京の造営は、天武天皇の時代に律令国家体制を推し進めるために計画され、建設途上で天武天皇が崩御された後には、持統天皇が引き継ぎ進められました
710年の平城京遷都までの16年間、この地で 持統、文武、元明 の天皇三代で律令国家体制が強力に押し進められました

701年(大宝元年)には持統朝の下で、藤原不比等(藤原鎌足の子)、刑部親王(おさかべしんのう)を中心に「大宝律令」を完成させ、政治のしくみが整備されます。通貨も、富本銭に続いて和同開珎が発行され、経済の仕組みも変化していくことになりました。
また、藤原京を発した遣唐使が、初めて「日本」の国号を使っています。

しかしながら、文武末年に遷都の話が持ち上がり、元明天皇が即位すると直ちに平城遷都の詔勅を発令し、2年後には、遷都が行われ、藤原京は廃都となりました。

遷都後の711年(和銅4年)に藤原宮は大官大寺とともに焼失したとも伝わります(『扶桑略記』の記述)が、藤原宮の発掘調査では火災の痕跡は確認されていないようです。


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藤原京造営が必要だった背景は

藤原京以前の都は、天皇が即位式を挙げた土地に宮が置かれ、天皇の代替わりごとに宮が変わるのが通例でした。ただ、藤原京への遷都前の、飛鳥宮 は、複数の天皇が宮とされました。

しかしながら、律令国家体制を推し進めるためには、天皇の権力、権威を継続的に象徴する壮大な都が必要であり、そのために藤原京がつくられました。
日本書紀では「新益都(しんやくのみやこ)」という表現で登場しています。

     

飛鳥京と藤原京の位置関係は

概略ですが、飛鳥京のおおよその範囲に藤原京、そして、現在の路線(駅)を重ねてみました。

藤原京への遷都前の飛鳥京の中心地は、天香具山の南側にありましたが、皇族の宮が置かれた地域を見ると、飛鳥京の都の範囲には、藤原京となるエリアもが含まれていたようにも感じます。

新しい宮を築く場所として、神々が鎮まるといわれる大和三山に囲まれるほぼ中心地に地に宮を置き、都を創るという構想には、ロマンを感じます。
その都市計画は、天武天皇の発案によるものだとされています。また、大海人皇子であった時代、その宮は、天香具山付近にあったといいます。

     

藤原京の都市設計は

藤原京は、律令国家の形を体現する都市として唐の古典の「周礼(しゅうらい)」という書物に基づいて造られた都と言われ、日本で初めて、首都機能を備えた本格的な都となります。

大和三山(香具山・耳成山・畝傍山)を取り込む藤原京の都市の規模は、平城京をしのぐ規模であったとも言われています。

縦横に走る条坊道路で整然とした区画割りが行われ、貴族や役人の宅地として支給された他、寺も数多くつくられ、官立の大寺院として大官大寺(平城京では大安寺)と薬師寺が東西に配置されています。

都市の規模は東西5.3km、南北4.8kmで、その中心部に約1km四方の藤原宮がおかれました
藤原京の中央には、都の中で最も広い朱雀大路が設けられ、発掘調査によると、路面幅は約19mで道の東西両側には幅約4mの溝が掘られている大路であったことが分かっています。

藤原宮が京のほぼ中心に位置するというのは他の都には見られない独特の配置でしたが、これは文献「 周礼(しゅうらい)」 だけを基に都市設計されたため?とも言われています。


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藤原宮について

藤原宮は、藤原京の中心に位置し、高さ約5.5mの掘立柱(※)の大垣(土壁・瓦葺)によって囲われ、東西約925m、南北約907m(面積約84ha)の大きさでした。

中心に大極殿院を置き、南に朝堂院、朝集殿院を配置、北には天皇の住居である内裏が造られました。
宮内の中枢部の建物は、礎石建ち、丹(朱)塗り柱、瓦葺で国内最初の中国式宮殿建築で威厳を持つものでした。

宮内の東西には様々な役所が置かれていたが、具体的な状況や役所名については未解明な部分が多く、分かっていません。

大垣の各辺には3つずつ(合計12門)の宮城門が設けられ、南面中央には正門である朱雀門(大伴門)が置かれました。
他に、猪使門、海犬養門など門が設けられ、それぞれ守護する氏族にちなんだ門名が付けられていました。

大垣の外側には、幅5~6mの外濠、内側に幅2.1mの内濠がつくられ、外濠と宮の周辺の条坊街路との間に外周帯(空閑地)が設けられる藤原宮固有のつくりでした。

     

(※)掘立柱(ほりたてばしら、ほったてばしら)とは

土を掘りくぼめて穴をつくり、穴の底に立てた柱のこと。
掘り出した土は柱の周りを固めながら埋め戻していき、建物などの基礎とする。


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藤原宮跡 画像ギャラリー

画像を「クリック」すると大きく見られます。
スマホでは、タップで拡大後、「スワイプ操作」で次の写真が見られます。

撮影:2021年(令和3年)

Photos by Catharsis  無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2023


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藤原宮跡(画像ギャラリー)の補足

藤原宮跡からは、東に香具山、北に耳成山、西に畝傍山の大和三山が臨めます。
現在の藤原宮跡には、大極殿院の基台跡の他、大極殿院南門(閤門)跡と東・西・南に門跡として、それぞれ想定地から10m~30mずらした場所に列柱を再現する柱が立てられています。

     

大和三山

大極殿の跡地付近から見える「香具山(天香久山)」です。まさに、持統天皇もこの地で、このアングルで、この天香久山 を見ていたことでしょう。

古来より、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として信仰の深い三山で、皇宮を造営する好適地とも考えられ、飛鳥京、藤原京が近くに置かれました。
本格的な都となった藤原京の造営にあたっては、宮都を営む上で 香具山 畝傍山耳成山 の三山に囲まれる立地が重視されたと考えられています。

この持統天皇の歌は、あまりにも有名です。

春過ぎて夏来たるらし
 白妙の衣干したり天の香具山
          「万葉集」


   

大和三山に囲まれる藤原宮跡に身を置くと、何かパワーをもらえるような感じがします。
当時の人々にも、パワースポットとしてとらえられていたのだろうと感じる場所です。

     

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大極殿院跡

天皇が国家儀式を執り行なった場所で、東西約115m、南北約155mの規模で回廊がめぐらされていたようです。
中央に大極殿が建てられていました。規模は、約45m×約20m、高さ約25mで、当時国内最大の建物で、瓦葺の宮殿としても最初のものといわれています。

現在は、大極殿の基壇の跡だけが残り、「大宮土壇(おおみやどだん)」と呼ばれ、鴨公神社が祀られています。
令和3年9月時点でも周囲の発掘調査が行われています。

     

大極殿院南門(だいごくでんいんなんもん)

大極殿院の南の中央に朝堂院につながる門があった。この門は「大極殿院南門<閤門>(だいごくでんいんなんもん<こうもん>)」と呼ばれています。
正面約30m、側面約15mと推定され、現在は、柱の位置が復元されているが、実際の門が存在していたのは、ここより北(大極殿院側)に30mの位置で発掘されています。

     

朝堂院南門(ちょうどういんなんもん)

朝堂院南門は、朝集殿院(ちょうしゅうでんいん)を隔てて朱雀門(すざくもん)の北、約170mにあり、朝堂院の正門にあたります。
1938年、1939年の調査で、礎石を据えた痕跡が14か所で確認されたことから、ここに南門が築かれていたことが明らかになっています。
南門の規模は、東西24.6m(五間)、南北10.2m(二間)で、基壇(きだん)は、明らかになっていません。
復元の列柱は、南門から北20mの場所に再現設置されています。

ここから見えた風景は、このようなものだったのでしょう。
(万葉文化館展示より)

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朝堂院(ちょうどういん)・朝集殿院(ちょうしゅうでんいん)

朝堂院は、貴族や役人が儀式や政務に携わった場所で、東西約230m、南北約320mと古代都城の中では、最大広さでした。
院内には左右対称にそれぞれ6つ、計12の朝堂があり、役所ごとの座席が設けられていました。
具体的な状況や役所名については未解明です。

藤原宮で働く役人は、日の出とともに開く朱雀門を通り、一旦東西に建つ朝集殿に入り、その後、この朝堂院南門を通り、朝堂院に立ち並ぶ朝堂や官衙(かんが)<役所>で午前に執務を行いました。
朝集殿は、朝廷の臣下が開門の時刻まで待機した殿舎で、官人たちは、身づくろいするなどして朝堂の南門がひらくのを待った。

     

朝堂院東門・朝堂院西門

朝堂院東門は、朝堂院と東方官衙(とうほうかんが)<役所>地区を結ぶ門でした。
東門は、南北21.3m、東西14.5mの基壇の上に、南北約15.3m(3間)、東西約10.2m(2間)の八脚門(はっきゃくもん)が建っていたと推定されています。

2003年の発掘調査で、屋根から落ちる雨水の排水溝である「雨落遺構(あまおちいこう)」や礎石据付穴(そせきすえつけあな)9個、礎石7個が出土しています。
復元の列柱は、宮跡内園路の通行確保のため、実際の位置より北へ20mずらした位置に設置されています。

西側には、対称的に朝堂院西門がありました。

     

朱雀大路跡

藤原京朱雀大路は、藤原京の左京と右京を分けるメインストリートです。右京左京は、701年に分けられたといいます。
この場所から北(藤原宮跡方向)約200mの場所に藤原宮の正面玄関にあたる南面中門(なんめんちゅうもん)<朱雀門(すざくもん)>があり、その門から南にのびる道が朱雀大路です。

道の東西両側には溝が掘られており、昭和51年の発掘調査により、路面幅は約19mで両側に幅約4mの溝を伴う大路であったことが判明しています。
現在、芝が張られているところが路面であり、砂利を敷き、石積みしているところが両溝の位置です。

また、この場所から、南(藤原宮と反対の方向)に位置する日高丘陵上では、丘陵を切り開いた土砂で埋め立て、平坦部をつくり朱雀大路を築いていることも判明しています。
その調査の中で「日本書紀」の693年(持統7年)に条に書かれている藤原京造営の際に壊して別の場所に葬ったという内容が裏付けられる壊された古墳跡や横穴墓(おうけつぼ)が見つかっています。


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参考情報

藤原京の主な年表

年 表
676年(天武4年)新都建設を構想(「日本書紀」に新しい都の建設を意図する記載)
686年(持統元年)持統天皇が天武天皇の意思を継ぎ、新都造営計画を継続
694年(持統8年)持統天皇が飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)から藤原京へ遷都
706年(慶雲3年)都城としての不備が問題化
708年(和銅元年)元明天皇が即位し、平城京への遷都を決定
710年(和銅3年)元明天皇が平城京へ遷都

16年間で平城京への遷都が行われた理由

遷都は大事業ですから、いくつかの大きな要因があったと考えられますが、次のような説があります。

  • 宮域が高地に立地しなかったため、都の内外に排水処理上の問題が発生していた
  • 朱雀大路が丘陵地にかかり都城を荘厳する空間になっていなかった
  • 宮殿が京のほぼ中心に位置する独特の配置であり、中国の古典書物「周礼」で理想の都とする記述をもとに建設されためといわれていますが、702年の遣唐使が派遣により、唐(長安)の都城の「天子南面(てんしなんめん)=皇帝は南を向き、民衆は北を向いて皇帝と向き合う」の思想と異なるつくりの都市になっていることが分かった。
    (皇居の配置は都市を造る上で非常に重要な問題で、それが唐と違うというのは、律令国家の都として致命的欠陥であると考えた。平城京は長安にならったつくりとなっている。)

この他にも、藤原氏が実権をにぎるための思惑があったという説もあるようです。
     

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時の天皇系図

藤原京で律令国家を進めた三代の天皇は、持統天皇、持統天皇の孫である文武天皇、持統天皇の異母妹であり、文武天皇の母である元明天皇、そして、天皇家とのかかわりを強める藤原不比等(藤原鎌足の次男)の存在も興味深いです。

     

藤原京遷都を推進した持統天皇とは

持統天皇は、律令を制定し、戸籍を整備し、本格的な都(藤原京)の造営を推進するなど、我が国の政治の礎を築いた天皇です。
また、「日本」の国号はじまりの天皇でもあります。

主な経歴
天智天皇(中大兄皇子)の娘。
13歳のときに大海人皇子(中大兄皇子の弟(?兄とも)であり、後の天武天皇)の妃となる。
即位前の名は、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)。
672年    「壬申の乱」で夫の大海人皇子が天武天皇として即位。皇后となる。
686年 天武天皇崩御。
その後の皇位継承者は、「草壁皇子」(持統天皇の実子で天武天皇の第2子)と、「大津皇子」(天武天皇の第3子で天智天皇の長女の大田皇女(おおたのひめみこ)が母)が有力候補であったが、同年、「大津皇子」は謀反の疑で処刑される。
(実子である「草壁皇子」に皇位を継承させるために持統天皇が動いたとも推定される。)
その後、天皇が即位しないまま政治を行う「称制(しょうせい)」をとり、皇后であった持統天皇が陰の実力者として政治の手腕を振う。
689年「飛鳥浄御原令」を出して律令体制を進める。
ところが、皇太子であった実子の「草壁皇子」が28歳という若さで病死。
自分の血筋に皇位を継がせたいと考えるが、孫となる(草壁皇子の子)軽皇子(かるのみこ)は、まだ7歳であった。
690年持統天皇として即位(天武天皇崩御より4年後)。
天武天皇の子である皇位継承候補は他にもいる状況のなかで、実孫の軽皇子を皇位につかせるために中継ぎ役として自らが即位したとも考えられる。
この年、庚寅年籍(こういんねんじゃく)を出し、6年ごとに戸籍を作成し、班田を行う制度も推進した。
694年夫の天武天皇の遺志を継ぐ形で藤原京の造営を完成させ遷都を実現。
697年15歳となった軽皇子を文武天皇として即位させ、自らは、太上天皇(たいじょうてんのう=上皇)となり実権は握りつつ、文武天皇との共同体制で律令制度が整えていく。
701年我が国初の本格的な法典である「大宝律令」を制定。
「大宝律令」は、天武天皇の子の刑部親王(おさかべしんのう)と持統朝の下で重要な立場にいた藤原不比等が中心に編纂。
この律令の整備に合わせて、我が国の呼び方(国号)も「倭」から「日本」とされた。
702年上皇(持統天皇) 崩御。

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藤原宮跡へのアクセス

アクセス

所在地:
 橿原市高殿町

最寄駅:
 近鉄 大和八木駅
 JR 畝傍駅
 近鉄 畝傍御陵前駅
 近鉄 耳成駅

近鉄 大和八木駅 から

バス(奈良交通):
 「橿原市藤原京資料室前」下車
  徒歩 約 4分

JR畝傍駅・近鉄 畝傍御陵前駅・近鉄 耳成駅から

徒歩:
  約30分

基本情報

入場料:
 無料(自由散策)

駐車場:
 あり(無料) 
 利用時間 8:30~17:00

公式ホームページはこちら
(開花状況も案内されています)

     

おすすめ時期

藤原宮跡では、大和三山と花のコラボレーションが楽しめます。
春の「菜の花(+桜)」、夏の「蓮」「キバナコスモス」、秋の「コスモス」が見どころです。

   

     

   

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近隣の見どころ

藤原京の歴史を紹介する「藤原京資料室」「藤原宮跡資料室」は、立ち寄りたいところです。
また、藤原遷都前の飛鳥の地を散策するのも、おすすめです。

     

藤原京を囲む大和三山を訪れる
それぞれ、神聖な雰囲気を持つ山です。大和三山は、藤原宮跡から眺めるだけではなく、それぞれに登ることができます。
畝傍山の麓には、初代天皇の神武天皇が祀られる橿原神宮が鎮座しており、神武天皇御陵もあります。

     

立ち寄りたい社寺
畝傍山の麓に鎮座する「橿原神宮」と「神武天皇御陵」は、お参りしておきたい場所です。また、
季節によってバラや風鈴が境内を飾る「おふさ観音」もお勧めです。

官寺であった大官大寺跡(大安寺の全身)や藤原京時代に薬師寺が置かれた本薬師寺跡もありますが、それぞれ跡地としてなごりが残る程度です。こちらは、関心があれば、立ち寄ってみるのもいいでしょう。(順次記事を追加していきたいと思います。)

     

藤原京への遷都前の飛鳥京を訪ねる【見どころ一杯です】
記事中でも述べましたが、地理的に藤原京と飛鳥京は重ねて考えることもできます。
飛鳥(明日香)は、見どころも多く、時がゆっくりと流れるようなところです。
是非、遊歩していみてはいかがでしょうか。(おすすめです。)

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酒船石遺跡(さかふねいし) 飛鳥の謎多き石たち|画像たっぷり 奈良
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史跡 川原寺跡 ~ 川原寺・弘福寺 飛鳥時代の大寺に思いを馳せる~|画像たっぷり 奈良
飛鳥時代の中心地に位置する川原寺(かわらでら)。飛鳥三大寺、四大寺といわれながらも、歴史の舞台から姿を消していく・・そんな不思議なお寺ですが、現在は、金堂跡に弘福寺が建ち、創建時の伽藍が偲ばれる史跡として飛鳥時代に思いを馳せる場所の一つです。川原寺について少し深堀して紹介します。

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