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石舞台古墳 ~ むき出しの古墳・明日香の謎の一つを紹介 ~|画像たっぷり奈良

奈良県中部

「石舞台古墳」は、わが国最大級の方墳で古墳の石室部分で、明日香村の人気スポットの一つです。飛鳥時代の豪族(貴族)、蘇我馬子が埋葬された場所といわれています。
実際に近くで見ると、どうやってこのような大きな岩を組み上げたのだろうかと感じます。
ここでは、石舞台と石舞台のなぜ?と感じるところについて紹介しています。


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石舞台古墳の概要

石舞台古墳は、現在の 奈良県 明日香村 島庄、国営飛鳥歴史公園の石舞台地区にあります。
石室を覆っていた盛土が失われ、巨大な石室が、石の舞台のように見える姿から石舞台と呼ばれていますが、もともとは、大きな石で造った屋を意味する「石太屋(いしふとや)」と呼ばれていたものが、転訛(てんか)して「石舞台」となったのではないかとの説もあります。

1933年(昭和8年)に行わた発掘調査により、6世紀末期から7世紀初頭のものであることが分かっています。
1952年(昭和27年)に、国の特別史跡に指定されています。

明日香村は、約1400年近く前の飛鳥時代、日本の政治の中心地であった

「飛鳥京」が置かれた場所です。
石舞台古墳は、その飛鳥京の中心地に近いところに存在します。

また、近隣には飛鳥時代の史跡が数多く見られます。

     

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図は、飛鳥時代の飛鳥京の中心地を表したものです。

この位置関係を把握しておくと、より石舞台や飛鳥の散策が楽しめると思います。

石舞台古墳は、飛鳥宮跡 からも比較的近く、岡寺 からは、南側に下ったところ(図の右下)の「島宮」と書いたところの近くにあります。


飛鳥京・飛鳥宮跡についてはこちら


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その大きさは

石舞台古墳 墳丘(クリックで拡大)

「石舞台古墳」は、わが国最大級の方墳で古墳の石室部分です。

1933年(昭和8年)から実施された調査では、

  • 墳丘は、一辺約55メートルの方墳、または、上円下方墳
  • 周囲には周壕と外堤が巡らされており、
  • 墳丘と外堤の斜面には貼石が施されている

ことが分かっています。

     

石室(埋葬施設)の構造・サイスは?

石舞台古墳 石室のサイズ(クリックで拡大)

石室は、南に開口する両袖式の横穴式石室

  • 玄室長は
    約7.8メートル、幅約3.4メートル、高さ約4.8メートル
  • 羨道長は
    約11.5メートル、幅約2.5メートル

玄室から羨道にかけて排水溝が設けられており、雨水が流れ込んだ際等に水が流れ出るような処理がされています。

約30数個の石で構成されており、石の総重量は推定2,300t、古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t北側が約64tもあるといいます。


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石舞台古墳の画像ギャラリー

では、石舞台古墳の画像をご覧ください。
また、画像がギャラリーの後に、さらに詳しく記していますので最後まで是非ご覧ください。

 画像を「クリック」すると大きく見られます。
 スマホでは、タップで拡大後、「スワイプ操作」で次の写真が見られます。

撮影:2022年(令和4年)6月

Photos by Catharsis  無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2024


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画像ギャラリーの補足

天井石

なるほど、石舞台だと感じる姿です。
近くで見ると、改めて、その大きさや重量感を感じます。

また、史跡の外にある丘に登ると、史跡全体を眺望することができます。

     

石室内

石舞台と呼ばれる大きな天井石の下に、このような大きな石室が存在しています。
南に開口する入口から両袖式の横穴式石室に入ることができます。大きな石室で、岩の重量感を感じます。
石室に入るときも、開口部の高さも3m近くあり、かがむことなく、普通に歩いては入れる大きさです。
石室内の画像は、画像ギャラリーでご覧ください。

     

周囲の堀

石舞台古墳は、約55mの方形で、その周囲には、堀がめぐらされています。
墳丘と外堤の斜面には貼石が施されている構造であったことが分かっています。

     

復元石棺

1933年(昭和8年)の発掘調査では、石棺は発見されませんでしたが、石室からは平らに加工した凝灰岩の破片が見つかっていることから、家形石棺安置されていたものと推定されています。
発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を基に復元された石棺が、置かれています。

これにしても、盗掘でこんな石棺まで、どうやって移動させたのだろうか・・・盗掘のレベルではないような・・・

     

隣接する広場(国営飛鳥歴史公園 石舞台地区)

石舞台古墳に隣接して広がる国営飛鳥歴史公園の石舞台地区です。飛鳥時代は、嶋家あるいは、島宮の一部であったのかもしれません。



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石舞台古墳の謎に少し迫る

このような大きな岩をどのように・・?

現代のような重機もない時代に、どのように造られたのでしょうか・・・?

そもそも、どこからこんなにたくさんの大きな岩をどのように

運んできたのでしょうか・・・?。


その推定される方法が説明版に書かれていましたので紹介します。

     

石は古墳の近くを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれたものと考えられています。

説明板を見ると、大体このような感じで運ばれ、造られてというとがイメージできます。

穴を掘り、そこに両袖となる岩を埋めて構造を造り、天井となる岩を置き、後に石室となる部分の土を取り除く

といった感じです。

それにしても、若が壁となるように岩を選んで組み合わせを考えたり、加工が必要たっだのではないかと思います。当時の土木技術のすごさを感じます。

また、飛鳥時代の技術という観点では、謎の石造物の数々や、石上遺跡や飛鳥京跡苑池で発掘された、流水施設など、石の加工技術には驚きを感じるものが多くみられます。

     

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あらためて誰が埋葬された墓なのか?

飛鳥時代の豪族(貴族)であり、政治の権力をにぎった

「蘇我馬子の墓」という説が有力ですが、

なぜそのようなに考えられるのかを紹介します。

まず、「島宮」について・・・

この記事のはじめの方に紹介した「飛鳥京の地図」で、石舞台は、「島宮」という宮の近くにあると記しましたが、まずその「島宮」について。

「島宮」は、斉明天皇の時代の頃から、皇太子の住む東宮として使われた宮で、天武天皇時代に、皇太子となった草壁皇子が住んだところといわれています。
しかしながら、それ以前にも、中大兄皇子や大海人皇子も皇太子となったときにここに住んだと考えていいと思います。(諸説あるかもしれませんが、そう考えるのがしっくりきます。)

ただ、これは、中大兄皇子と中臣鎌子が「乙巳の変」で蘇我氏を討った後に、官(皇室)の管理となって「島宮」としてからからの話です。

「乙巳の変」の以前は・・・
蘇我氏のものであり、蘇我馬子の邸宅(嶋家)(後には蘇我入鹿の邸宅となった)があった場所といわれています。
入鹿が住んでいたころは、邸宅の一画に、あるいは、隣接するように、この古墳が存在していたということになるでしょう。

蘇我馬子の邸宅の範囲は、西の飛鳥川を越えた、橘寺のあたりにまでに及んでいたともいわれ、邸宅の庭園の池には、島が浮かんでいたたことから、嶋家と呼ばれ、馬子自身も嶋大臣と呼ばれていたようです。

そして、『日本書紀』によると、推古天皇34年(626年)5月の条に「大臣薨(こう)せぬ。仍(よ)りて桃原墓に葬(ほうむ)る」とあり、この大臣が、蘇我馬子を指していると考えられ、この「桃原墓」が石舞台だと考える説が有力となっています。

ただし、盗掘されており、埋葬物は、ほとんど残っていないため、特定はできておらず、異説もあり、石の種類、築造年代などから蘇我稲目ではないかという説や、天武天皇が仮に埋葬された場所といった説もあります。

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なぜ封土が、失われているのでしょうか?

石舞台の姿は、古く(江戸時代初期の文献に記されているころ)から、墳丘上部の封土を失い、石室の天井石が露出された状態だったようです。

盗掘にあい、石棺まで、なくなっている(石棺は、欠片(かけら)のみ発見)状況石室が露出している状況から、生前の馬子の横暴さに反発した後世の人が破壊行為を行ったためとも考えられているようです。

実際に馬子の墓ということであれば、

相当な、恨みを買っていたのかもしれませんね。

     

では、蘇我馬子とはどんな人物だったのでしょうか?

蘇我馬子は、6世紀後半、敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となった豪族(貴族)で、用明天皇、崇峻天皇期を経て、馬子の姪にあたる推古天皇期には、権力を掌握します。

この時代の天皇の系図と蘇我氏の関係を図にしてみましたので、ご覧ください。

蘇我氏は、娘を天皇に嫁がせ、天皇の血縁となり、自分の血筋の天皇を即位させることで、政治の実権を得ようとする姿が見て取れます。
(その後の時代の藤原氏も同様ですが・・)

また、当時、認められていなかった仏教を信じ、それに反対する物部氏との争いの中で、最終的に物部氏を破り、権力を手にします。

馬子は、さらに権力を握ろうと崇峻天皇を即位させますが、馬子を面白く思わず、また、仏教に前向きではない崇峻天皇を殺害してしまいます。
その後、推古天皇が即位(馬子の思惑)し、権力を確固たるものとしています。

一方、推古天皇期には、皇太子となった厩戸皇子(聖徳太子)が、摂政をつとめ、馬子は、聖徳太子と合議して政治運営することとなりました。
この時期、本格的な伽藍を持つ寺院 飛鳥寺 の建立も行われます。

622年(日本書紀では621年)太子が没してしまいます。その後は、馬子の独断ぶりが目立ったことでしょう。
そして、626年、馬子もこの世を去ります。

馬子とか、蝦夷、入鹿という名前も少し変わっており、後の世に本来の名とは異なる名前で書かれたのではないかという意見を聞いたことがありますが、どことなくそんな風に感じます。(あくまで想像の範囲ですが・・)

     

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石舞台古墳へのアクセス

アクセス

所在地:
  奈良県高市郡明日香村島庄133

最寄駅:
 近鉄 飛鳥駅、近鉄 橿原神宮前駅

近鉄 橿原神宮駅(東口)から

バス(奈良交通):
 明日香周遊バス 
「石舞台」下車 徒歩 約3分

レンタサイクル:
 自転車で飛鳥を巡るのもお勧めです。

近鉄 飛鳥駅から

バス(奈良交通):
 明日香周遊バス 
「石舞台」下車 徒歩約3分

レンタサイクル:
 自転車で飛鳥を巡るのもお勧めです。


 

基本情報

入場時間:
    8:30~17:00(受付16:45まで)
   休業日 年中無休

入場料:
    300円(一般)

駐車場:
  有(有料)

レンタサイクル:おすすめです
 飛鳥の地を巡るのには、結構お勧めです。
 近鉄 橿原神宮前駅/飛鳥駅周辺にレンタサイクル店があります。
 また、車の際は、駐車場のあるレンタサイクル店もあります。


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近隣の見どころ

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飛鳥の地で本格的な都が造られた「藤原宮跡」も近くにあります。


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