橘寺(たちばなでら)は、明日香村(飛鳥宮跡の近く)にあり、聖徳太子建立七大寺の一つに数えられとともに、聖徳太子生誕の地ともいわれますが、創建については、よく分かっていません。
飛鳥の謎の石造物の一つである「二面石」も橘寺にあります。
ここでは、橘寺の歴史や見どころを画像たっぷりに紹介します。
橘寺の概要
創建は・・
橘寺の創建年は、不明ですが、7世紀の初めから中頃と推定されています。
寺伝では、606年(推古天皇14年)に、天皇の仰せにより、当時35歳の聖徳太子が「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を三日間にわたり講讃になると、
- 大きな蓮の華が庭に降り積もり
- 南の山(仏頭山)には千の仏頭が現れ光明を放ち
- 太子の冠から日月星の光が輝く
という不思議なことが起きたといいます。
これに、推古天皇が驚かれ、この地にお寺を建てるよう太子に命ぜられたといいます。
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しかし、一方、発掘調査結果などからは、天智朝期の創建である可能性が高いともいわれています。
(後ほど、もう少し補足します。)
聖徳太子生誕の地とも伝承・・
また、この地は、6世紀後半には、橘の宮(橘島宮)という欣明天皇(きんめいてんのう)<聖徳太子の祖父>の別宮があり、572年に、聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ))は、ここで生まれたといわれています。
だだ、聖徳太子の誕生地は、用明天皇(聖徳太子の父)の磐余池辺双槻宮(いわれのいけのへのなみつきみや)という説もあります。
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最盛期には、66棟の堂舎が建ち並ぶ大寺に・・
橘島宮を改造して造られたといわれるのが、橘樹寺(たちばなのきてら)/ 橘寺となります。
創建当初は、小規模な堂(金堂と推定)が建てられ、7世紀後半には、大規模なお寺となっていたようです。
最盛期(8世紀)には、東西約850m、南北約650mの寺地に金堂、講堂、五重塔をはじめ、66棟の堂舎が四天王寺式伽藍配置(あるいは、山田寺式伽藍配置)といわれる配置で建ち並んでいたといわれます。
平城京への遷都以降も、飛鳥の地に残り、756年(奈良時代)には、光明皇后(第45代聖武天皇:在位724年~749年の皇后)から、釈迦三尊像、827年(平安時代)には、淳和天皇(第53代天皇:在位823年~833年)から、薬師三尊像が寄贈されているようです。
その後、
1148年(近衛天皇4年)落雷により、五重塔が焼失
1185年(鎌倉時代)に三重塔が再建
1506年(永正3年)には、多武峰の兵により攻められ焼失し、江戸時代には、僧舎一棟のみになってしまったようです。
現在の伽藍は・・
1864年(元治元年)に人々の尽力により、現在の堂宇が再建されたものです。
本堂(太子殿)ほかになど、わずかな諸堂を残すのみとなっています。
また、昔は、法相宗でしたが、江戸中期からは天台宗になり、比叡山延暦寺の直末となり、「仏頭山上宮皇院橘寺」、別名「菩提寺」となっています。
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橘寺の画像ギャラリー
撮影:2022年(令和4年)1月
Photos by Catharsis 無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2024
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橘寺の拝観どころ
本堂(太子殿)
橘寺の「本堂(太子殿)」は、1864年に再建された堂です。
ご本尊 聖徳太子勝鬘経講讃像
ご本尊は、聖徳太子が、35歳のときに「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を講讃されたときの姿を映した「聖徳太子勝鬘経講讃像」<室町時代作:重要文化財>です。
本堂の最奥の御厨子の中に鎮座されています。
田道間守(たじまもり)像
手に笹のようなものを持った「田道間守(たじまもり)」の像も祀られています。
田道間守(たじまもり)は、蜜柑・薬・薬・菓子の祖神といわれ、橘という地名の由来となる人物でもあります。
田道間守(たじまもり)は、日本書紀によると垂仁天皇(第11代天皇)の時代に勅命により、トコヨの国(現在の中国の雲南省みられる)へ、不良長寿の薬を求めに行きます。
十年間かけ苦労の末、秘薬を手に入れますが、本国に持ち帰ったときには、天皇はすでに崩御されていました。
この時、田道間守が、持ち帰ったものが、「トキジクノカグノコノミ」といわれ、その実を当地に蒔くと芽を出したのが橘(ミカンの原種)であったいいます。
それ以降この地が橘と呼ばれるようになったようです。
また、田道間守は、橘と共に、黒砂糖も持ち帰り、共に薬として使ったことから、後に、蜜柑・薬・薬・菓子の祖神として崇められるようになったようです。
ここから、お菓子屋さんに橘屋の屋号が多く用いられようになったそうです。
二面石
飛鳥時代の石造物の一つで、太子殿(本堂)の左横に置かれている。人の心の善悪二層を表したものといわれる。
右が善面、左が悪面と呼ばれ、人の心の持ち方を表したものといわれます。
また、背面は、平らになっており、何かと組み合わされていたものとも推定されているようです。
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黒 駒
橘寺の本堂前に建つ「黒駒像」。
聖徳太子の愛馬の像で、太子は、黒駒にまたがって各地に説法へ出かけたといわれています。
空を駆け、達磨大師の化身ともいわれます。
仏頭山麓の地蔵菩薩の傍らにその姿が置かれ、災難厄除けのお守りともいわれています。
五重塔跡
五重塔跡の土壇が本坊前に残っています。中心には、珍しい形の心礎が確認されています。
法隆寺の若草伽藍の心礎と似ているようです。
直径90cm、深さ10cmの柱の入る孔の三方に半円形の孔が掘られており、約38m程度の五重塔が建っていたと推定されています。
蓮華塚・仏頭山・三光石
太子が、「勝鬘経(しょううまんきょう)」を三日間にわたり講讃になったときに、大きな蓮の華が庭に降り積もりこれを埋めたのが「蓮華塚」、千の仏頭が現れ光明を放った南の山が「仏頭山」、太子の冠から日月星の光が輝いたのが「三光石」と伝えられています。
蓮華塚
降り積もった蓮の華を埋めたとされる「蓮華塚」。
、また、「蓮華塚」は、大化の改新の時に、この塚の大きさを一畝(ひとせ)と定め、これを面積の基準として田畑が整理されたため、「畝割塚(うねわりつか)」とも呼ばれているようです。
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仏頭山
仏頭山は、橘寺の南側にあり、橘寺の山号にもなっています。
写真は、岡寺 から見た橘寺で、左に見える山が、仏頭山です。
三光石
太子が、勝鬘経(しょうまんぎょう)講讃のとき、「日、月、星」の光を放ったと伝えられる現象を具現化した石のようです。
三光石の横には、聖徳太子が造ったといわれる「阿字池」があります。
往生院
阿弥陀三蔵をご本尊として祀られます。太子の念仏精神を引き継ぐものとして、念仏写経研修道場として、平成9年に再建されたものです。その格天井には現代画家らが競作した260点の花の天井画で彩られています。
聖徳太子生誕の地
川原寺と面するあたりに、聖徳太子生誕地の碑が立っています。
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橘寺についてもっと知る
「聖徳太子建立七大寺」の一つ・・
橘寺は、「聖徳太子建立七大寺」の一つにも数えられています。
聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)は、聖徳太子が建立したという伝承のある7つの寺院で、最古の聖徳太子伝記である「上宮聖徳法王帝説(じょうぐう しょうとくほうおう ていせつ)」にある「太子、七寺を起す。・・」の記述に由来しているようです。
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などが分かってきています。
これらから、時期は不詳ながら、天智天皇期(在位:662年-671年)の創建の可能性が高いとも見られており、天智天皇期に建てられたとされる川原寺が僧寺(男僧の寺)であったのに対し、尼寺として橘寺が建立されたのではないかとする説が有力となっているようです。
(川原寺と同じ、飛鳥川原宮跡であったのかもしれません・・?)
法隆寺の玉虫厨子もかつては、橘寺に・・
現在は法隆寺にある「玉虫厨子」も当初は橘寺にあったとされます。
法隆寺の金堂日記によると、「1148年に、橘寺より、小仏49体を迎えた」という記述があり、このころに「玉虫厨子」も橘寺から法隆寺に移されたようです。
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橘寺へのアクセス
アクセス
所在地:
高市郡明日香村橘532
最寄駅:
近鉄 飛鳥駅、近鉄 橿原神宮前駅
基本情報
入山時間:
9:00~17:00
(受付は、16:30まで)
年中無休
※ 但し特別な事情がある場合は除く
入山料:
一般/大学生 400円
情報が変更になってる場合がありますので、参拝にあたっては、公式ページをご確認ください。
近隣の見どころ
川原寺は、飛鳥宮に隣接する位置に建てられたお寺で、飛鳥時代は、中心地にありました。南側には、向かい合うように聖徳太子が生まれたといわれる「川原寺(かわらでら)」があります。
そして、乙巳の変があった、「飛鳥宮跡」を中心に、「飛鳥寺」「岡寺」「石舞台」「酒船石遺跡」などのほか、いくつかの遺構や石物を巡り、「高松塚古墳」「キトラ古墳」「藤原宮跡」「大和三山」など見どころが多くあります。
結構広いエリアです。レンタサイクル(飛鳥駅付近にあり)で巡るのもおすすめです。
また、「飛鳥資料館」は、飛鳥の見どころが凝縮されていますので、全ても周り切れない場合は、ここを見学するのもおすすめです。
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