飛鳥宮跡は、大化の改新のはじまりとなる 「乙巳(いっし)の変」の舞台となった場所です。飛鳥京の政治の中心地として天武天皇、持統天皇宮もここに置かれていました。謎多き飛鳥時代ですが、歴史に名を残す人々が存在した飛鳥宮と飛鳥京について詳しく紹介しています。
飛鳥宮跡の概要
ここは、645年に中大兄皇子(皇極天皇の子で、後の天智天皇)、中臣鎌足を中心とした政変により蘇我入鹿が暗殺された「乙巳(いっし)の変(大化の改新)」の舞台となったまさにその場所です。
飛鳥宮跡の周辺の飛鳥京中心には、当時が偲ばれる史跡や社寺が残り、発掘されている数多くのものから当時の技術水準のすごさも感じられます。

以前は、「第35代 皇極天皇:こうぎょくてんのう」、「第37代 斉明天皇:さいめいてんのう」(皇極天皇の重祚(じゅうそ))の皇居跡として、かつては、「伝飛鳥板蓋宮跡」の史跡名がつけられていましたが、その後の調査により、飛鳥板蓋宮だけではなく、飛鳥岡本宮(第34代 舒明天皇:じょめいてんのう)や、後飛鳥岡本宮(第37代 斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(第40代 天武天皇・第41代 持統天皇)など、飛鳥時代を通して、5代の天皇の宮が継続的に置かれていたことが判り、平成28年に、「飛鳥宮跡」に改められています。

現在広々とした草地の一画に、石敷広場と大井戸跡が復元されています。
復元されているのは、上層の天武天皇/持統天皇時代の飛鳥浄御原宮のもののようです。
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飛鳥宮跡のギャラリー
飛鳥時代の中心地であった飛鳥宮跡をご覧ください。
撮影:2021年(令和3年)3月
Photos by Catharsis 無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2024
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飛鳥京と宮について
飛鳥宮跡からの風景
広々とした跡地が広がっています。

写真の奥に見える丘が、甘樫丘(あまかしのおか)です。
蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が権勢を天下に示すために、丘の麓や中腹に邸宅を築いていたといわれています。
甘樫丘については、こちら の記事をご覧ください。
甘樫丘のさらに先には、天香具山と耳成山も見えます。
飛鳥京の中心地
飛鳥時代(593~710年)は、古墳時代から脱皮し大和国家が貴族の連合政権から、天皇制律令国家として形成された時代であり、飛鳥はそのはじまりの場所です。
推古天皇(第33代天皇)が即位した593年頃からはじまり、持統天皇(第41代天皇)が694年に、藤原京に遷都するまでの間、飛鳥の地が(難波、近江の時代もありましたが)、政治の中心地でした。
飛鳥時代は、天皇が住まいを変えたところが宮となったため、多くの宮が存在します。
推古天皇の「豊浦宮(とゆらのみや)」にはじまり、小墾田宮(雷丘東方遺跡)、そして、飛鳥宮跡を中心に宮の整備が進んでいきます。
宮は、初めは天皇の住まいであり、政治の場を兼ねるものでしたが、国家の仕組みが整うにつれて、中国の制度に習い、多くの役所や苑池などが宮の内外に造られるようになります。
その中心地が、飛鳥宮跡です。
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そして、飛鳥宮跡は、発掘調査により、先ほども記した通り、
① 舒明天皇の「飛鳥岡本宮」
② 皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」
③ 斉明天皇(皇極天皇の重祚)の「後飛鳥岡本宮」
④ 天武天皇、持統天皇の「飛鳥浄御原宮」
の新旧の4期(5代の天皇)の宮跡が重なっていることが分かっています。
現在、史跡として再現されているのは、上層の宮殿遺跡で、天武天皇と持統天皇の「飛鳥浄御原宮」であることがほぼ確定されています。
内郭(ないかく)、エビノコ郭、外郭で構成されています。
エビノコ郭正殿は、大極殿とみられる建物で天武天皇期に増築されたようです。
(こちらは、橿原考古学研究所附属博物館にあるジオラマです。)
後に、ここから、本格的な、都となる藤原京への遷都が行われました。
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飛鳥京時代に営まれた宮
飛鳥時代(593年~694年)の宮 ※緑は、飛鳥以外の宮
豊浦宮(とゆらのみや):593年~<推古天皇>
小墾田宮(おはりだのみや):603年~<推古天皇>
飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや):630年~<舒明天皇>
※ 火災により、一時的に、636年 田中宮(たなかのみや)、
640年 厩坂宮(うまさかのみや)へ
百済宮(くだらのみや):640年<舒明天皇>
飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや):643年~<皇極天皇>
※ 645年、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、
蘇我氏を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)があった宮です。
難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや):652年~<孝徳天皇>
※ 孝徳天皇を残し、653年 飛鳥稲渕宮(飛鳥河辺行宮)へ
飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや):655年~<斉明天皇>
※ 火災により、一時的に 655年 飛鳥川原宮(かわらのみや)へ
後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや):656年~<斉明天皇>
近江大津宮(おうみのおおつのみや):667年~<天智天皇/弘文天皇>
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや):672年~<天武天皇/持統天皇>
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飛鳥京の範囲は・・
飛鳥京の時代のゆかりの地をマップに表してみました。
各宮があったといわれるところは、赤字で示しています。
これを見ると、後の藤原京となるエリアを含むような広い範囲に及んでいます。
私見ですが、飛鳥京の時代には、藤原京以降整備される碁盤のように縦横に敷かれる道で区画される「条坊」がないため、都といえる範囲が、明確ではありませんが、藤原京を含む(図の赤の点線くらいまで)範囲での京(都)であったと考えいいのではないでしょうか。
藤原京に遷都後も残され、藤原京と一体となっていたようにも見えます。
明日香と飛鳥

「あすか」を漢字で表すときに「飛鳥」と「明日香」が両方使われています。
その使い分けについて紹介します。
もともとは、日本には漢字がなく、「あすか」と呼ばれていたようです。
漢字の伝来とともに当て字で「明日香」となったが、地名は2文字が良いという時代があって、その時に「飛鳥」と呼ぶようになったようです。その後、昭和31年に、「高市村」「阪合村」「飛鳥村」の3村が合併して生まれたのが「明日香」村ですが、地名としては、「飛鳥」の字が一般的に定着しています。
また、「あすか」の表記については、古事記、日本書紀、万葉集等では、「明日香」「飛鳥」「安宿」「阿須賀」「阿須可」「安須可」等色々の文字が用いられており、「地名」または「川の名前」として、「明日香」と「飛鳥」が、最も多く使われているようです。
古事記、日本書紀では、「飛鳥」が、万葉集では、「明日香」が多く使われている傾向にあるようです。これも面白いと感じます。
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基本情報
飛鳥宮跡へのアクセス
所在地:高市郡明日香村岡
最寄駅:
近鉄 橿原神宮前駅、近鉄 飛鳥駅
バス(奈良交通):
飛鳥駅行き
「岡天理教前」下車
徒歩 約5分
※バスの運行本数が少ないのでご注意ください。
レンタサイクル:
飛鳥の周遊におすすめです。
バス(奈良交通):
橿原神宮駅東口行
「岡天理教前」下車
徒歩 約5分
※バスの運行本数が少ないのでご注意ください。
レンタサイクル:
飛鳥の周遊におすすめです。
駐車場:
駐車場はありません。かなり狭い道なので大型車ではきつそうです。
軽自動車で短時間であれば1,2台の駐車は可能な感じです。
レンタサイクル:おすすめです
飛鳥の地を巡るのには、結構お勧めです。
近鉄 橿原神宮前駅/飛鳥駅周辺にレンタサイクルがあります。
また、車の際は、駐車場のあるレンタサイクル店もあります。
近隣の見どころ
明日香村を周遊で一日過ごすのがいいと思います。飛鳥寺(蘇我入鹿の首塚)、酒船石遺跡、岡寺、石舞台、謎の石巡り(亀石など)、自転車(レンタサイクルあります)での周遊がお勧めです。








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知っておくと一層楽しい飛鳥宮跡にまつわる時代背景
飛鳥時代(593年~710年)は、古墳時代から脱皮し、大和国家が貴族の連合政権から、天皇制律令国家として形成されていく時代です。
※ 史実上は、不明な点も多く、様々な説がある時代ですので、ここで書いている内容とは異なる説もあります。
舒明天皇(在位:629年~641年)期の国政は実質的に蘇我蝦夷(そがのえみし)の支配下にあり、また、皇極天皇期(在位:642年~645年)は蝦夷(えみし)とその子の入鹿(いるか)に牛耳られていました。

その後も、蘇我氏は意のままになりそうな 古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)を次の天皇につけようと後ろ盾となり、画策していたようです。
蘇我氏に牛耳られる流れを断ち切りたい異母弟の葛城皇子(中大兄皇子)は、中臣鎌子(鎌足)が計画する蘇我氏による支配を覆す政変に同意し、蘇我氏を排除するクーデターを実行しました。
これが、「乙巳(いっし)の変(大化の改新のはじまり)」です。

蘇我宗家との権力争によってこの変が起こされたという見方もありますが、その後の大化の改新により、「律令国家」への道がつくられて行きます。
この大化の改新や乙巳の変の決行について、中大兄皇子と中臣鎌子が密談したという地があります。
それが、現在の談山神社のある山中(談山:かたらいやま)と言われています
↓↓ 「談山(かたらいやま)」「談山神社」について、詳しくは、こちら ↓↓
(ご興味があれば)
↓↓ 楽天で見る ↓↓
乙巳(いっし)の変(645年)前後の天皇は
第34代 舒明天皇 (じょめいてんのう)(田村皇子)
在位:629年~641年

推古天皇の没後、蘇我蝦夷が、田村皇子(舒明天皇)を支持し、境部摩理勢が聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持し、激しく対立しました。摩理勢が蝦夷らに殺されたことで田村皇子が即位しました。(推古天皇の遺言によるという説もあります。)
姪(同母の妹という説もあります)にあたる宝皇女(後の皇極天皇・斉明天皇)を皇后とし、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)が誕生している。また、大海人皇子は、舒明天皇の子ではないという説もあります。
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第35代 皇極天皇(こうぎょくてんのう)(宝皇女)
在位:642年~645年(目の前で「乙巳の変」が起こる)

若くして「高向王(たかむくのおおきみ)」(この人物は、特定されていませんが、渡来系の人物という説もあります)に嫁ぎ「漢皇子」を生んでいますが、舒明天皇(叔父にあたる/実は兄という説も)の妃となり、舒明二年に皇后に立ちました。
夫である舒明天皇(じょめいてんのう)の崩御の後、皇位継承者が決まらないため即位しましたが、なぜ、即位に至ったは不明です。
「山背大兄王(やましろのおおえのおう:聖徳太子の子)」、「古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)」「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」が候補として上がりましたが、決着できずに皇極天皇が即位したという説があります。
また、聖徳太子の子である「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」は、「蘇我入鹿」と折り合いが悪く、入鹿に攻め込まれ、一旦は逃れたものの自害したといわれています。
これにより、聖徳太子の血筋は途絶えることになりました。

645年には、皇極天皇の目の前で「蘇我入鹿」が殺される「乙巳の変」に遭遇し、これを目の当たりにすることになりました。
これにより、史上初の譲位の事例をつくることになります。
俗説ですが、入鹿は皇極女帝の恋人だったとか言う話もあるようです。
(補足)
皇極天皇は、舒明天皇との間に「中大兄皇子(天智天皇)」「大海人皇子(天武天皇)」「間人(はしひと)皇女(孝徳天皇の皇后)」をもうけていますが、再婚であるという記述が残されており、前夫との間に「漢皇子」を生んでいます。
「田村皇子」(即位する前の「舒明天皇」)と結婚したのは、「漢皇子」を生んだ直後のようです。
また、「漢皇子」のその後の消息は不明です。・・が、実は、「大海人皇子(天武天皇)」がその人ではないかという説もあります。
皇極天皇は、後に斉明天皇(第37代天皇)として再度即位します。
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第36代 孝徳天皇(こうとくてんのう)(軽皇子)
在位:645年~654年

645年(皇極4年)6月14日、「乙巳の変」で皇極天皇による史上初めての生前譲位が行われ、皇太子を経ずに50歳の軽皇子が孝徳天皇として即位しました。
6月に元号を大化と定められ、12月には都を「摂津国難波長柄豊碕宮(大阪市)」に遷都しました。
皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲ろうとしましたが、中大兄皇子は、「乙巳の変」を引き起こした当事者であり、直ぐに即位は良くないと判断し、固辞したようです。(天皇になるための当時の慣例の年齢に達していなかったという説もあります。)
舒明天皇の第一皇子の「古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)」も即位を辞退し即刻出家しました。
蘇我入鹿の後ろ盾がなくなり、危機を感じたためとの説もあります。しかし、古人大兄皇子は、同年(大化元年)に謀反を起こした(謀反の疑念を抱かれた?)ことにより、中大兄皇子によって攻め滅ぼされていしまいます。
一方の中大兄皇子も即位を固辞したため、皇極天皇の同母弟の「軽皇子(孝徳天皇)」に即位を願い、中大兄皇子が、皇太子となりました。
その後、中大兄皇子は難波から大和への遷都を進言しましたが、孝徳天皇がこれを拒むと、653年に皇極と間人皇后(はしひとのきさき)を連れて、飛鳥へ戻ってしまうという出来事もあり、実権は、前天皇や中大兄皇子が握っていたと考えられています。
この時、飛鳥に戻った皇族が営んだのが、飛鳥の中心地から少し離れた「飛鳥川辺行宮(飛鳥稲淵宮)」といわれています。
孝徳天皇は在位10年(9年4ヶ月)、59歳で残された難波宮にて崩御されました。
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第37代 斉明天皇(さいめいてんのう)(皇極天皇と同一人物)
在位:655年~661年

皇極・斉明天皇は女性天皇として史上初の譲位を行ない、また史上初の重祚(ちょうそ)も行ないました。再び飛鳥に遷都されます。
斉明天皇が重祚を選んだのは、終身王位制の影響が強かったのかもしれません。
当時天皇になるのは35歳以上という慣例のようなものがあり、それに適する皇子がいなかったいなかったためとも考えられています。
当時30歳前後の中大兄皇子が引き続き太子として政務を執りました。(実権はほぼ中大兄皇子がにぎっていたのかもしれません。)
斉明天皇の時代、飛鳥の宮殿の東山に石垣を築くために大量の石材を運ぶために運河の大工事を行いました。「狂心渠(たぶれごころのみぞ=無駄な運河)の 工事。むだな人夫を三万余り。垣を造るむだな人夫は七万余り」と人々から非難されたされていますが、飛鳥を華やかな都にするとともに、運河は、後の灌漑用水路や防御のための濠にも使えるように造ったとも言われています。

他にも多武峰(とうのみね)に観(たかどの=寺院・軍事施設・眺めのいい場所他の説がある)や両槻宮(ふたつきのみや=天宮:仙人たちが住んでいるとされる天上の宮)を建てたり、苑池(えんち=宮廷庭園)などの土木工事も行なったとされています。
(酒船石遺跡の亀形石造物は、この一部と考えられています。)
観(たかやど)や両槻宮(ふたつきのみや)は道教の影響とも想定されますが、苑池工事は都づくりの一環と捉えられます。
一方でこの時代、唐の膨張と朝鮮半島の動乱が続き、日本は東アジアの外交問題に巻き込まれ、助けを求められた百済救援のため、斉明天皇自ら筑紫(九州)に赴き、朝倉宮(あさくらのみや:所在地は福岡県朝倉市とされる)で崩御されました。
以上、「乙巳の変(大化の改新のはじまり)」前後の時代背景と天皇についてまとめてみました。
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