スポンサーリンク

史跡 飛鳥稲淵宮殿跡 ~ 石舞台近くにある行宮跡・稲渕棚田や飛鳥の珍石も ~|画像たっぷり 奈良

奈良県中部

「飛鳥稲淵宮殿跡(あすかいなぶちきゅうでんあと)」は、「石舞台」の近くにあるひっそりとした史跡ですが、飛鳥の歴史上の舞台の一つでもある「飛鳥川辺行宮跡(あすかのかわらのかりのみや)」の有力な推定地です。
史跡の前には飛鳥川が流れ、近くには、奈良の田園風景を代表する「稲渕棚田」があり、飛鳥の謎の石の一つも見られます。

スポンサーリンク

「飛鳥川辺行宮(飛鳥稲渕宮殿)」の概要

「飛鳥川辺行宮(飛鳥稲渕宮殿)」は、どのような宮であったのか?
「飛鳥川辺行宮(飛鳥稲渕宮殿)」の営まれた背景は、他の宮とは、少し異なるように思いますので、まず、この宮が営まれることになる流れについて説明します。(諸説あるかもしれません。)

     

スポンサーリンク

↓↓ 楽天で見る ↓↓

     

  • 645年、中大兄皇子・中臣鎌子(鎌足)が中心となり、蘇我蝦夷・入鹿親子へのクーデターが行わた「乙巳の変(いっしのへん)」が、断行されます。
    このクーデターの後、皇極天皇は、一旦譲位(歴史上初の譲位)し、弟の孝徳天皇が飛鳥と距離を置く難波宮で即位します。
  • 652年頃、難波宮が形づくられてきたころ、中大兄皇子は難波から大和(飛鳥)への遷都を進言しますが、孝徳天皇は、これを拒みます。
  • すると、653年、中大兄皇子は、皇極<前天皇、中大兄皇子の母>と孝徳天皇の皇后である間人皇后(はしひとのきさき)<皇極の子>と共に、飛鳥へ戻ってしまいます。

この時、飛鳥に戻った皇族が営んだのが、「飛鳥川辺行宮(飛鳥稲淵宮殿)」ということになります。

難波宮が天皇の宮でしたので、さすがに飛鳥の中心地には

行宮を置くことを控え、少し離れた稲淵で宮を営んだ

ということではないかと想定されます。

     

スポンサーリンク

     

このような経緯に至った真の要因は、測り知ることはできませんが、実権を握っていた、皇極前天皇や中大兄皇子<皇極の子>が、政治の方向性や権力争いの中で強硬手段に出たということなのかもしれません。

そして、その後・・

難波宮に残された、孝徳天皇は翌年の654年11月に難波宮で崩御されます。
そして、飛鳥川辺行宮(飛鳥稲渕宮殿)で行宮を営んでいた皇極前天皇や中大兄皇子は、再び、飛鳥の中心地に宮を移し(かつての飛鳥板蓋宮)、皇極元天皇が重祚(ちょうそ)し、斉明天皇として即位します。

飛鳥川辺行宮(飛鳥稲渕宮殿跡)は、このような歴史を中で

営まれた宮と考えられるのですね。


スポンサーリンク

PR

     

「飛鳥稲渕宮殿跡」と周辺の画像ギャラリー

 画像を「クリック」すると大きく見られます。
 スマホでは、タップで拡大後、「スワイプ操作」で次の写真が見られます。

撮影:2022年(令和4年)6月

Photos by Catharsis  無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2024


スポンサーリンク

     

発掘調査で確認された「飛鳥稲渕宮殿(飛鳥川辺行宮)跡」

史跡の解説(現地説明板より)

「史跡 飛鳥稲渕宮殿跡」は、7世紀中頃の大型建物群の遺跡です。

飛鳥稲淵宮殿跡 説明版をもとに加筆

1977年(昭和52年)の発掘調査で、4棟の掘立柱建物が見つかっています。
南北にならぶ2棟の主殿舎(正殿、後殿)を中心にして、その東側に2棟の脇殿が配置されていたようです。
(分かりやすくするために、説明板の図に、各殿がどれかを追記してみました。)

そして未調査地の正殿の西側にも東側と同様の脇殿の存在が想定され、正殿をコ字形に脇殿と後殿で囲むような建物物配置であったと推定されるようです。

正殿は正面24.6m、奥行10.2m で4面に庇(ひさし)をもった大型建物であったと推定されています。
後殿と脇殿も正殿側には庇が設けられ、各建物に囲まれるように中庭があり、大形の玉石を敷きつめるなど、極めて整った一画をしていたことが分かっています。

このような規格正しい配置の建物や石敷は、他の宮殿の中心部と共通することから、天皇の宮殿あるいは、皇族の邸宅であったと考えられようです。
※現在、宮殿跡は保存のため埋め戻され、「史跡 飛鳥稲渕宮殿」の石碑が建っています。

   

マラ石

石舞台のバス停から、飛鳥稲淵宮殿跡に向かう道すがらにありますので紹介します。
明日香村に残る謎の石造物の一つです。本来は、真っすぐに立っていたものともいわれているようです。
子孫繁栄や農耕信仰(豊作祈願?)に関係したものと考える向きもあるようです。

   

稲渕棚田

飛鳥稲淵宮殿跡の近隣にある山間に広がる水田と畑が美しいエリアです。
中世(平安~室町時代)に開墾され、日本の棚田百選にも選ばれた稲渕棚田の風景もぜひ楽しみたいスポットです。

秋には、棚田の畔や土手に自生の彼岸花もみられます。


スポンサーリンク

PR

     

飛鳥稲淵宮殿跡へのアクセス

アクセス

所在地:
 奈良県高市郡明日香村大字稲淵

最寄駅:
 近鉄 飛鳥駅、近鉄 橿原神宮前駅

近鉄 橿原神宮駅(東口)から

バス(奈良交通):
 明日香周遊バス 
「石舞台」下車 徒歩約15分

レンタサイクル:
 自転車で飛鳥を巡るのもお勧めです。

近鉄 飛鳥駅から

バス(奈良交通):
 明日香周遊バス 
「石舞台」下車 徒歩約15分

レンタサイクル:
 自転車で飛鳥を巡るのもお勧めです。


 

基本情報

入場料:
  無(自由散策)

駐車場:
  史跡の所に、駐車可

近隣の見どころ

明日香村を周遊で一日過ごすことができると思います。飛鳥寺(曽我入鹿の首塚)、飛鳥宮跡、岡寺、橘寺、川原寺、石舞台、謎の石巡り(亀石など)、自転車(レンタサイクルあります)での周遊がお勧めです。

酒船石遺跡(さかふねいし) 飛鳥の謎多き石たち|画像たっぷり 奈良
奈良飛鳥の地は、「石の都」とも言われ、6世紀末から7世紀ころに多くの石造物が造られた「謎の石造物」が点在しています。飛鳥寺から、ほどない場所にある酒船石遺跡では、酒船石と亀形石造物を見ることができます。
飛鳥寺(飛鳥大仏)~ 見どころ・日本最古の本格的寺院 ~|画像たっぷり 奈良
飛鳥寺は、蘇我馬子が発願、聖徳太子と共に日本初の本格的寺院として完成したお寺です。飛鳥の大仏さんとしても知られます。ここでは、飛鳥寺の歴史をわかりやすく紹介。また、お寺の周辺は、飛鳥時代を感じる史跡や風景が広がり、歴史に思いを馳せながらの散策が楽しいところです。
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)と飛鳥京 ~ 大化の改新のはじまりの地 ~|画像たっぷり 奈良
【必見】飛鳥宮の特徴・飛鳥宮跡の見どころを歴史を含め詳しく解説!。大化の改新のはじまりとなる 「乙巳(いっし)の変」の舞台となった場所です。また、天武天皇、持統天皇の宮もここにありました。いにしえの時代の政治の中枢の地での人々の存在を思いながら散策したい場所です。
甘樫丘(あまかしのおか)~ 飛鳥京の中心地に位置し、蘇我蝦夷・入鹿の邸宅があった地 ~|画像たっぷり 奈良
甘樫丘は、飛鳥の中心にある標高148mの緩やかな丘です。飛鳥時代の飛鳥京の中心地にあり、645年の「乙巳の変」時には、ここに蘇我蝦夷、蘇我入鹿の邸宅があったようです。頂上の甘樫丘展望台からは、飛鳥の里が一望でき、近くには飛鳥寺、また大和三山といわれる畝傍山、耳成山、天香具山も眺められます。
岡寺(龍蓋寺)~ 厄除けと美しい境内が魅力の飛鳥のお寺 ~|画像たっぷり 奈良
岡寺(龍蓋寺)は、西国三十三所観音霊場の第七番札所として信仰を集め、日本最初の「やくよけ霊場」としても知られます。日本最大の塑像のご本尊は是非拝観したいところです。また、春の石楠花やゴールデンウイークに行われる華の池、秋の紅葉の季節は、特にお勧めです。
橘 寺 ~ 飛鳥(明日香村)に佇む聖徳太子ゆかりの寺 ~|画像たっぷり 奈良
橘寺(たちばなでら)は、明日香村(飛鳥宮跡の近く)にあり、聖徳太子建立七大寺の一つに数えられ、聖徳太子生誕の地ともいわれますが、創建については、よく分かっていません。飛鳥の謎の石造物の一つである「二面石」も橘寺にあります。ここでは、橘寺の歴史や見どころを画像たっぷりに紹介します。
史跡 川原寺跡 ~ 川原寺・弘福寺 飛鳥時代の大寺に思いを馳せる~|画像たっぷり 奈良
飛鳥時代の中心地に位置する川原寺(かわらでら)。飛鳥三大寺、四大寺といわれながらも、歴史の舞台から姿を消していく・・そんな不思議なお寺ですが、現在は、金堂跡に弘福寺が建ち、創建時の伽藍が偲ばれる史跡として飛鳥時代に思いを馳せる場所の一つです。川原寺について少し深堀して紹介します。

スポンサーリンク

部屋をアートするポスター!

婚活はなにがいいの...?
結婚相談所はどこがおすすめ...?

     

タイトルとURLをコピーしました