あまり見慣れない奈良時代の建造物。ピラミッドのような形状のこの建造物は、「頭塔」と呼ばれる「土塔(仏塔)」で、その側面に石仏が埋め込まれています。あまり知られていないスポットですが、詳しく紹介しています。見学も可能です。
「頭塔(ずとう)」の概要
奈良の市内循環バスの「破石町(わりいしちょう)」バス停の近くに、ピラミッドのようなあまり見慣れない建造物が見えます。
「一体あれは何だろう?」と、初めて見ると少し気になることでしょう。これが「頭塔」です。
以前は、ホテルがあり、その陰に隠れ存在が分かりにくかったのですが、現在は更地となっている(2022年5月時点)ため、バス停からも目にすることができます。
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そもそも何なのか?
頭塔は、東大寺南大門から南(大仏殿と反対側)に約1km、新薬師寺の西側約700mのあたり(奈良市高畑町)に位置する奈良時代に造られた土製の塔です。
現在の「頭塔」は、767年に、東大寺別当の 良弁 の命により 東大寺の僧 実忠<二月堂 修二会行法(お水取り)を創始した僧> が、造営した仏塔(土塔)と考えられています。
(それがなぜ、「頭塔」と呼ばれるかは、後で述べます。)
- 一辺 32m の方形積石の基壇上に 7段 の階段状の積石で造られており、高さは、基壇を含め約10m
- 7段のうち、奇数段には、ところどころに石仏が配置されている
- 石仏は、石の表面に仏の姿が刻まれたものや、石の表面を削って仏の姿を残す奈良時代後期の数少ない貴重なもののようで、1977年(昭和52年)に地表に露出していた13基の石仏が、重要文化財に指定され、さらにその後の発掘調査で新たな石仏も発掘され、現在(2022年5月時点)は22基が重要文化財に指定されている
1922年(大正11年)に国の史跡に指定されています。
近年(1987年~1988年)に、発掘調査が行われ、また、奈良県教育委員会による復元整備が進められ、2000年(平成12年)に現在の状態になっています。
発掘調査により、7段のうち、1・3・5・7の奇数檀にはそれぞれ11基ずつ、合計44基の「石仏」が整然と配置されていたと考えられており、その内 28基 が確認されています。
また1基は 大和郡山城の石垣 に転用されていることも明らかとなっています。
頭塔の周囲には、見学路が設けられており、各面を見ることができます。見学には予約が必要です。
ただ、特別公開期間が設けられ、その期間は、予約なしで見学することができます。
また、この頭塔に類似するものとしては、行基が関与した堺市の土塔があります。
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「頭塔」の画像ギャラリー
撮影:2021年(令和3年)11月
Photos by Catharsis 無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2024
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頭塔を詳しく知る
なぜ「頭塔」と呼ばれるのは?・・・
塔の形状自体は、頭のような形をしているわけではありません。
では、なぜ、「頭塔」と呼ばれるようになったのでしょうか?
平安末期の『今昔物語集』や、1140年(保延6年)に大江親通が著した『七大寺巡礼私記』などで、奈良時代の僧 玄昉(げんぼう)の首を埋めた墓(首塚)という伝説があり、これが「頭塔」の名の由来といわれてきました。
ただ、実態の所は、「土塔(どとう)」がなまって「頭塔(ずとう)」と呼ばれるようになったのではないかといわれています。
でも、個人的には、玄昉の伝説があってのことではないかと感じます。
えっ! 玄昉の首って!?・・
玄昉の伝説って何?
玄昉(げんぼう)について
玄昉は、735年(天平7年)5千巻に及ぶ経論を携えて唐から帰国し、平城宮の光明皇后宮(藤原不比等邸)の一画に建てられた「海龍王寺(かいりゅうおうじ)」に住したといわれる僧です。
「海龍王寺」は、玄昉の開基ともいわれます。
聖武天皇・光明皇后ともかなり近い関係で接点を持つ人物であったと言えます。
玄昉は聖武天皇の信任を得て、吉備真備(きびのまきび)と共に橘諸兄(たちばなのもろえ)政権を支えたようです。
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政権争いの渦中で・・
これを不服を持ったのが藤原広嗣でした。
当時衰えていた藤原氏の勢力回復をもくろみますが、広嗣は大宰府に左遷されてしまいます。
その後740年、広嗣は、 玄昉や吉備真備の重用に反発し「藤原広嗣の乱」と呼ばれる挙兵をしますが、失敗し処刑されてしまいます。
しかしながら、その5年後の745年、藤原仲麻呂が権力を握ると、今度は「玄昉」が大宰府の観世音寺に左遷され、翌年そこで没してしまいます。(消息を絶ったともいわれます。)
広嗣の怨霊が・・!?・・
この玄昉の死は広嗣の怨霊によるもので、観世音寺の落慶法要の時、雷が落ちて玄昉の姿が突然消え、天に舞い上がった彼の身体がバラバラになり、首が興福寺(あるいは、現在の頭塔の場所)に落ちたという不気味な噂が流れます。
そして、玄昉の首を埋葬したのが「頭塔」だ、というものです。
こんな話が、後に複数の書に記されました。
ほかにも、頭塔の少し西側に玄昉の肘(腕)が落ちてきたと伝えられる場所がり、「肘塚(かいのづか)」という地名が残っています。
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頭塔の内部には、もう一つの頭塔が・・
実は、発掘調査により、この頭塔の内部には、ひとまわり小さい当初期の頭塔が存在していることも確認されています。
当初期の頭塔は、実忠の造営の少し前、760年(天平宝字4年)に実忠とは別の人物によって6世紀の古墳を破壊して造営されたもので、方形の封土が3段 築かれ、その4面に石仏が配置される構造であったことも分かっているようです。
では、そもそもの頭塔は何のために?・・
当初期の頭塔は、石積みは荒く、ゆがんでいるなど造営が急務だったと推定されるような痕跡が確認されるようで、病床にあった光明皇太后の平癒祈願のため、娘の孝謙上皇が急いで築いたものと考える説があるようです。
760年に塔は完成されますが、まもなく光明皇太后は崩御(760年7月)してしまいます。
一方、このころ道鏡が孝謙上皇に接近し権勢を振るい始め、これに反発した藤原仲麻呂が764年に乱を起こします。
頭塔が改めて造り直されたのはこの乱の3年後の767年で、国家安泰や称徳天皇(孝謙上皇の重祚<ちょうそ>=再び皇位についた)の長寿を祈るために東大寺別当の 良弁 の命により 東大寺の僧 実忠が、造営したものと考えらています。
孝謙上皇自身が築いた塔を
造り直したということになる
のですね!?
この他にも説があり、寺領の争いの中で、東大寺が南方への寺域拡張を目指したものとではないかという指摘もあるようです。
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頭塔の見どころ
頭塔を周回できる見学路が設けられており、各面を見ることができます。南面は、発掘前のそのままの状態を残すため復元されずに残されています。
土塔
復元にあたっては、石仏が抜き取られていた場所には、新石(石仏)が補充されています。
また、石積みは、復元のために加えられていますが、残存していたものと区別できるように鉛版の境界で区切られているようです。
奈良文化財研究所による復元のイメージ図が掲示されていますが、積石の上(偶数段)に瓦葺の屋根がのっており、奇数段に複数の石仏が配置されていたことが分かっています。
奈良時代には、心柱が建ち、最上部には相輪が据えられていたと推定されています。
頂上にある五輪塔は、発掘調査前から置かれていたもので、江戸時代に置かれたものと推定されています。
心柱は、平安時代初頭に落雷で焼失し、十三重の石塔が建立され、その後塔身も何度か改修されているようです。
また、現在石仏の上にある瓦屋根は、本来あった屋根の復元ではなく、石仏を直射日光や風雨から保護するためのもののようです。
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石仏
石に刻まれる仏の姿、表面に仏の姿を線で描いたものや、表面を削って仏の姿を立体的に残すもの、また、多数の仏が彫られていたり、従者らと並んで座る姿などがあり、奈良時代後期の数少ない石仏の様々な姿を観ることができます。
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頭塔へのアクセス
アクセス
所在地:
奈良市高畑町921番地
最寄駅:
近鉄 奈良駅、JR 奈良駅
基本情報
拝観時間:
9:00~17:00(※)
※ 前日までに現地管理人さんへの
予約が必要です。
※ また、特別公開期間中は、予約は不要です。特別公開期間中はボランティアガイドが常駐し、解説をしてくれます。
情報が変更になっている場合もありますので、詳細並びに連絡先は、こちら を ご確認ください。
拝観料:
1人 300円(協力金)
駐車場:
なし(近隣の駐車場を利用)
※公共交通機がおすすめです。
近隣の宿泊施設
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社寺参拝や史跡巡りには、奈良公園周辺で宿泊し、ここを拠点に奈良の魅力を満喫してみてはいかがでしょうか。
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近隣の見どころ
頭塔は、市内循環バス「破石町(わりいしちょう)」バス停からすぐの所にあります。
高畑地区というところでもあり、奈良公園からもそれほど離れていません。
近くには、「志賀直哉旧居」「新薬師寺」「白毫寺」などのがあります。
また、春日大社に向かう「禰宜道」も春日山原始林の雰囲気を感じられる道です。その中で「下の禰宜道」は、「ささやきの小径」とも呼ばれ、人気です。
また、春日山原始林の中を散策・トレッキングできる遊歩道もおすすめです。「滝坂の道」は旧柳生街道です。「滝坂の道」と「春日山遊歩道(南コース)」は、「首切地蔵」付近で合流します。
この周辺でも、いくつかの石窟仏か見られます。
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