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興福寺 南円堂 ~ 西国三十三所 第九番札所・特別開扉も ~|画像たっぷり 奈良

奈良公園

興福寺の見どころの一つでもあるのが南円堂。西国三十三所の第九番札所でもあり、巡礼され御朱印を求められる方も多く見かけます。
また、毎年10月17日、年に1度だけ特別開扉されるその堂内は、安置される像の素晴らしさだけでなく何かを感じる世界観があります。

興福寺といえば、奈良を代表する社寺の一つですが、目立っているのは、一に五重塔、二に、東金堂、いや、中金堂か(どちらもだ)・・三、四もあって、その次に来るのが、南円堂、北円堂、三重塔・・・そして、護摩堂に、一言堂、講堂(仮講堂)。さらに、大湯屋に菩提院。

勝手ながら、こんな感じですが、実はかつての寺域は広大で、ゆかりの地は、他にもあります。
興福寺全体の見どころは、別ページで紹介していますので、全体を見たい方は、こちら をご覧ください。

ここでは、その中で、南円堂にフォーカスして紹介します。

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興福寺 南円堂(重要文化財)の概要

読みは、そのまま、「なんえんどう」です。
普段も、興福寺の境内は自由散策が可能です。

したがって、南円堂は、外からであれば、いつでも自由に拝観できます。

ただ、堂内に入れるのは、年に一度、10月17日の特別開扉の時だけです。

また、「興福寺南円堂の藤」は、「南都八景」のひとつでもあります。

     

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では、南円堂について紹介していきます!

  • 南円堂は、奈良時代には、その姿はなく、創建は、平安時代です。
  • 813年(弘仁4年)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、父 内麻呂(うちまろ)の追善のために建立したものです。鎮檀には、弘法大師空海がかかわったと伝わるようです。
  • 興福寺は、そもそも藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも「北家」が栄えたことから、北家ゆかりの南円堂は、興福寺伽藍の中でも特別な位置づけとして扱われたようです。
  • そして、南円堂に安置される「不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)」は、藤原氏の信仰を集めたといいます。
  • しかしながら、1181年(治承4年)平清盛の命を受けた平重衡らの平氏軍による「南都焼き討ち」により焼失してしまいす。
  • そして、現在の南円堂は、創建以来四度目の建物で、江戸時代1741年(寛保元年)に立柱されたものといわれています。また、1996年(平成8年)には、平成の大修理も行われました。

     

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興福寺 南円堂 の 画像ギャラリー

四季を通じて南円堂を様々な角度から撮影したものです。
また、南円堂に入堂できる特別公開の際に、南円堂の基壇から撮影した画像も交えていますので、普段は見られれない南円堂から見た興福寺もご覧いただけます。(南円堂内の撮影は禁止です。)

 画像を「クリック」すると大きく見られます。
 スマホでは、タップで拡大後、「スワイプ操作」で次の写真が見られます。

Photos by Catharsis  無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2024


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南円堂の前に植えられている「藤」と「橘」にも着目

南円堂前には向かって右側(南円堂側からは左)には、「藤」がありますが、向かって左側(南円堂側からは右)に「柑橘」が植えられています。

     

左近藤(さこんのふじ)・右近橘(うこんのたちばな)

平安時代、京都御所紫宸殿の階(きざはし)の左右に「桜」と「橘」を植えられ、左には、左近衛府(さこのえふ)、右には、右近衛府(うこのえふ)と呼ばれる警護の官人が詰めていたため、「左近の桜」「右近の橘」と呼ばれるようになったと伝わるようです。
(2024年(令和6年)のNHK大河ドラマの御所の左右に見られる「桜」と「橘」が、なんとなく目についてしまいます。)

これに倣って南円堂前にも植えられたようですが、藤原氏の氏寺である興福寺では、「桜」の代わりに「藤」が植えられ、「左近藤(さこんのふじ)」「右近橘(うこんのたちばな)」と呼ばれるようです。

「右近橘(うこんのたちばな)」は、日本に古くから野生した柑橘で、別名「ヤマトタチバナ」ともいわれます。

     

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そして「南円堂の藤」(左近の藤)は、南都八景の一つ

興福寺 南円堂の藤は、室町期の奈良の風景の中で「南都八景」の一つとされた景観でもあります。
かつての興福寺にはもっと多くの藤があったものとの思われますが、南円堂の前には現在も藤を見ることができます。

「南都八景」とは・・・?

1456年(寛正6年)足利八代将軍義政が、春日詣を行った際に、将軍にお供をした「鹿苑院蔭涼軒(ろくおんいんいんりょうけん)<京都 相国寺の塔頭>」の僧「季瓊真蘂(きけいしんずい)」が、中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで風光明媚な奈良名所として記した日本最古といわれる八景です。詳しくは、こちら

     

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南円堂の堂内の拝観

南円堂は、通常は開扉されておらず、外からの拝観のみです。
ただ、年に一度、毎年「10月17日」に特別開扉が行われ、堂内を拝観することができます。

南円堂内は、独特の世界観が広がる空間です。なんといいましょうか、堂内が一つの世界観を形成し、不思議と広がりを感じるのです。

ご本尊、四天王像、法相六祖坐像それぞれが、国宝で素晴らしいものですが、その配置、堂内の造り全体が素晴らしいのです。
限られた堂内の空間が何倍にも広く感じるような不思議な空間です。

機会があれば、是非実物の拝観をされてはいかがかと思います。(かなりのお勧めです。)

     

南円堂の堂内の配置

南円堂の堂内は、御本尊「不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)」(国宝:木造)を中心に、四方には四天王(国宝:木造 四天王像)が安置され、南北にそれぞれ三体ずつ、六体の僧像(国宝:木造 法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう))が鎮座しています。

いずれも鎌倉期 1189年(文治5年) 運慶の父 康慶(こうけい)が弟子たちとともに制作したものといわれます。

     

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不空羂索観音菩薩坐像(国宝):木造

変化(へんげ)観音の一つで、手に持つ縄(羂索:けんさく)で人々の願いを空しいものにしないという誓いと願い<=誓願(せいがん)>を持っています。
眉間には、一目を加えた、三目八臂(さんもくはっぴ)の坐像です。

仏師康慶とその弟子達が、約15か月にわたり、造像したもので、康慶が後の慶派仏師の地盤を築いた作といわれます。


<お姿の特徴>

眉間には、第3の目

八臂(八本の腕)

  • 第一手は、胸前で合掌する
  • 第二手は、左手に蓮華、右手に錫杖(しゃくじょう)を持つ
  • 第三手は、両手共脇下に垂らし五指を伸ばして掌(たなごころ)を前に向ける
  • 第四手は、左手に羂索(けんさく)、右手に払子(ぼっす)を持つ

髪を高く結い、頭には宝冠(ほうかん)に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)

上半身に斜めに掛ける薄い鹿皮(ろくひ)

     

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四天王立像(国宝):木造

この四天王立像は、以前は、仮金堂に安置されていたようですが、本来は、南円堂に安置されていたことが判明し、2017年(平成29年)に南円堂に還座されています。

それまで、南円堂に安置されていた四天王像がありましたが、これは、再建された中金堂に移安され、南円堂内は、本来の姿になったようです。

桧の寄せ木造りで、色彩も施されていたようです。四天王それぞれに火焔光背(かえんこうはい)を付けた力強い像です。

四天王は、須弥山(しゅみせん)の大将である帝釈天の家来として、須弥山の中腹に住み仏法を守る大天王で、東を持国天、南を増長天、西を広目天、北を多聞天が守っています。

     

法相六祖座像(国宝):木造

ご本像の左右に三体ずつ安置される僧の座像。これは、法相宗の発展に貢献した僧の像です。
台座裏側の墨書き名や、後の地代の法相曼荼羅図などから、それぞれの名称が判明していますが、諸説があり確定には至らないことから寺伝通りの名称が踏襲されているようです。

六祖は、左右に1体ずつ、

  • 趺坐(ふざ)<足を組んで座る>    :「善珠(ぜんしゅ)」「常騰(じょうとう)」
  • 跪坐(きざ)<正座をして座る>    :「玄昉(げんぼう)」「玄賓(げんぴん)」
  • 立膝(たてひざ)                       :「行賀(ぎょうが)」「神叡(しんえい)」

が鎮座しています。

       

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興福寺南円堂の御朱印

興福寺 南円堂は、西国三十三所 第九番札所として巡礼され、御朱印をもらわれる方も多くいらっしゃいます。

筆者も最近手に入れた金色の御朱印帳に南円堂の御朱印もいただきました。

また、西国三十三所の御朱印をいただくと、小さな散華もいただけます。

※金色は、私物の御朱印帳です。プレミアム感があります。書かれる方も驚いていました。

同様のものが楽天でも手に入れられるようです

 

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それでは、少しだけ、「西国三十三所」と「御朱印」の由来について

ご紹介します。

     

西国三十三所とは

西国三十三所巡礼の起こりは、大和国長谷寺の あの壮大な 十一面観音像を造り安置した「徳道上人」が礎を築いたものといわれています。

徳道上人は、718年(養老2年)に、病にかかり仮死状態になってしまいます。
その時、冥土で閻魔大王と出会い、世の中の悩み苦しむ人々を救うために、三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めなさいと告げられ、起請文と三十三の宝印を授かったといいます。

     

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現世に戻った徳道上人は、閻魔大王により選ばれた三十三の観音霊場の開祖となられます。

それが、現在も伝わるこちらの観音霊場(西国三十三所)です。

しかしながら、観音巡礼は、当時の人々には受け入れられませんでした。

そして、約270年後、花山法皇(第65代 花山(かざん)天皇<在位984年~986年>が譲位により法皇となる)によって西国三十三所観音巡礼が、再興されたといいます。

花山法皇は、わずか2年で皇位を退き、19歳の若さで法皇になられ、比叡山で修行をした後、書寫山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、中山寺の弁光上人を伴い那智山で修行し、観音霊場を巡拝され、西国三十三所観音巡礼を再興されたといいます。

2024年(令和6年)のNHK大河ドラマでも花山天皇が登場しますが、実際には、どのような天皇であったのでしょうか。

      

御朱印のはじまり・・・?

御朱印の起源は、「六十六部廻国聖(ろくじゅうろくぶかいこくひじり)」と呼ばれる者たちが、全国66か国の霊場を巡り、経文を納めた証しとして受け取った「納経請取状」であるといわれていますが、西国三十三所の御朱印は、奈良時代に「徳道上人」が閻魔大王から授かった三十三の宝印が起源といわれています。(※諸説あるようです。)

そして、閻魔大王の約束の証である宝印を三十三所のすべての寺院で集めると、極楽浄土への通行手形となるといわれています。

現在も、西国三十三所巡りをされる方がいらっしゃるのが分かる気がします。
皆様も如何でしょうか。

     

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興福寺へのアクセス

アクセス

所在地:
 奈良市登大路町48

最寄駅:
 近鉄 奈良駅、JR 奈良駅

近鉄 奈良駅 から

徒歩:
 約 5分

JR 奈良駅 から

徒歩:
 約 15 分

バス(奈良交通):
 市内循環(外回り)「県庁前」下車
 徒歩 約 3分

基本情報

拝観料・拝観時間:
 ・境内の散策は、無料
 (時間制限もなく、自由散策可能です)
 ・国宝館、各堂への入場は、
   9:00~17:00(受付終了16:45)

  拝観料は、以下の通りです。

拝観場所拝観料
国宝館700円
東金堂<拝観中止中>300円
(国宝館・東金堂(共通))900円
中金堂500円

※ 東金堂は、現在拝観できません。
※ 拝観料は、大人・大学生のものです。この他、中高生、小学生料金等があります。
※ 最新の情報と異なる場合がありますので、公式ページでの確認をお願いします。

興福寺 公式ページはこちら:

     

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近隣の見どころ

興福寺は、奈良公園の玄関口ともいえる場所にあります。興福寺全体をまず、是非ご堪能いただくことをお勧めします。そして、「春日大社」「東大寺」は、必見の参拝地ですが、その他、世界遺産「元興寺」に寺域であった「ならまち」の散策も人気です。

      

近隣の宿泊施設

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