山間にある隠れ里というにふさわしい静かな場所です。かつての剣豪たちが過ごした空気感が伝わってくるような時間が過ごせます。足に自身がありハイキングも楽しみたい方は、奈良の市街地からの約20kmの柳生街道(山道)を散策するのもありかもしれません。
柳生の里の概要
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柳生の地は、戦国の世で柳生家厳が守り、その後、無刀の術を究め、柳生新陰流を創始した柳生宗厳(石舟斎)に引き継ぎ、その五男 柳生宗矩(但馬守)を始めとする柳生家のゆかりの地です。
奈良の市街地からは、かつては、剣豪たちも往来した旧柳生街道(車は通行できない)で結ばれています。
隠里というのにふさわしい緑豊かな情景が印象的で、剣豪が修練していたとされる山中には、苔むす大きな石が散見され、宗厳(石舟斎)が、切ったといわれる一刀石もあります。
柳生の庄の名を今に受け継いでいると感じる地です。
ギャラリーで、柳生の庄を感じ取っていただければ幸いです。
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「柳生の里」の 画像ギャラリー
撮影:2021年(令和3年)1月
Photos by Catharsis 無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2024
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柳生の里の見どころ
柳生の道と風景
かつての剣豪たちの過ごした、山間にある柳生の里の風情を味わうことができます。
芳徳寺
神護山芳徳禅寺といい、柳生家代々の菩提寺です。
1638年(寛永15年)、柳生宗矩が父(石舟斎)の供養のために創建しました。沢庵禅師の開基により柳生の里を一望に見おろす山王台の上にあります。
以後、柳生家代々の菩提寺となり、本堂裏には柳生家歴代の墓があります。
また、本堂には、釈迦如来像や宗矩、沢庵和尚の像が安置されています。
ここはもとは、柳生家の居城といわれており、今も城の名ごりがあります。
自然がつくりだす天守閣でもありました。
一刀石
一刀石は、天石立神社の奥にあります。
約7m四方の巨石があり、見事に真っ二つに切れたように割れています。
この辺りは昔、柳生家の修行地といわれ、柳生石舟斎が天狗と試合をして、斬りつけたところにあったこの岩を二つに割ったという伝説が残っています。
某アニメのブームで、ここを訪れる人が増えたせいか、石の前には、かつては無かった舞台が設けられています。
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旧柳生藩家老屋敷
柳生家の資料が残る広大な邸宅です。
江戸時代末期に柳生藩の財政再建をした家老の小山田主鈴の屋敷です。長く続く立派な石垣は、1841年(天保12年)に、尾張石工が築いたと記されている。
昭和39年に作家の山岡荘八の所有となるが、没後遺志により、昭和55年に奈良市へ寄贈されました。
現在は一般公開され、柳生家にまつわる武具や資料が展示されています。
近くに、似たような建物がありますが、そこは、公開されていません(現在も、住まわれているようです)。
旧柳生藩陣屋跡
1642年(寛永19年)に柳生宗矩が築いたが、1747年(延亭4年)に火災により全焼しています。その後は、仮建築のままで明治の廃藩を迎えたときに取り潰されました。
現在は公園として整備されていますが、少し残念な状態です。
十兵衛杉
柳生下町の丘の麓にそびえる老杉があり、それを十兵衛杉と呼んでいます。
1626年(寛永3年)、柳生十兵衛三厳が諸国漫遊に旅立つ際に先祖の墓をお参りし、この杉を植えたといわれています。樹齢約350年余を経て現在は落雷の為、枯れた状態となっています。
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ホウソウ地蔵
地蔵の右下に、たどたどしい文字で「正長元年ヨリ サキ者 カンヘ四カン カウニ ヲヰメアル ヘカラス」と書かれた碑文があるようですが、ほとんど見えません。
「正長元年(1428年)より先は、神戸四ケ郷に負債あるべからず」と判読されており、土一揆をした記念する碑文(徳政碑文)とする説が有力です。全国でも、まれなものの様です。
(民家の横から細い道を登って、細い柳生街道を進んだところにあります。)
柳生花しょうぶ園(6月初旬~中旬)
6月初旬から中旬にかけて、約1万平方メートルの敷地に、約80万本のしょうぶが見ごろとなります。初夏の柳生の里が楽しめるスポットです。
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柳生の里へのアクセス
アクセス
所在地:
奈良市柳生下町491(柳生観光駐車場)
最寄駅:
JR 奈良駅、近鉄 奈良駅
柳生一族についての豆知識
柳生石舟斎とか、十兵衛とか、聞いたことはあっても、それぞれの関係やどんな人物なのか良くわからなかったので、まとめてみました。(いろいろな、説があるところもありますので、ご参考までに。)
柳生家の主な系図
先祖は、菅原道真公からの系統のようですが、柳生家厳(いえよし)からは、以下の流れです。
1)柳生家厳
2)柳生宗厳(石舟斎)
3)柳生厳勝
4)柳生宗章
5)柳生宗矩:江戸柳生
6)柳生利厳:尾張柳生
7)柳生三厳(十兵衛)
8)柳生宗冬:江戸柳生継承
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参考:
柳生家では、「厳」の字が多く使われ、「よし」という読み方をされる。また、時には「とし」と読むこともあるようです。
柳生家厳(いえよし)
戦乱の中、柳生の庄2千石を守る(石舟斎の父)
- 応仁の乱により室町幕府が衰退し、1536年(天文5年)木沢長政(畠山氏の重臣)が信貴山に城を構え、大和国攻略に乗り出したが、この時、「家厳」は、長政に従い、筒井氏や二木氏らと戦った。
- しかしながら、木沢長政が管領の細川晴元や三好長慶らと対立し、1542年(天文11年)に敗死すると、筒井順昭が、木沢の残党を次々と攻略し、やがて柳生にも攻め込まれ、居城であった小柳生城も攻められ、降伏する。この時、宗厳(のちの石舟斎)を人質に出して家の存続を図った。
- その後、三好長慶の重臣であった松永久秀が大和に進出してくると松永久秀側に寝返り、大和攻略戦で活躍する。
- 三好長慶が死去すると、松永久秀が、三好一族(三人衆)との主導権争いにより窮地に至る。松永久秀は、三好勢に包囲されたが、足利義昭を擁立して上京する織田信長の傘下に入ることで戦勝することになる。この時に、「家厳」は久秀側に付き、久秀が、大和に攻め込んむときに、これを支え、柳生の庄2千石を守った。
- ちなみに、この松永久秀と三好・筒井勢との合戦(東大寺大仏殿の戦い)により、東大寺大仏殿もこの時焼け落ちてしまいました。(松永久秀が、東大寺に陣を張った三好・筒井勢を攻撃)
- その後、筒井氏も信長に降り、大和の戦乱が収まったが、直後に家督を宗厳に譲り、家厳は、隠居した。
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柳生宗厳(石舟斎)(むねとし)
柳生新陰を開祖し、徳川家康に兵法を伝授する
- 筒井順昭の人質となったときに、槍術の会得に集中し、兵法者として成長したともいわれる。
- 戸田一刀斎から中条流、神取新十郎からは新当流を学び上方随一の兵法者と言われたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と巡り会い、その弟子の疋田景兼(信綱本人、あるいは、別の弟子のの鈴木意伯という話もある)に何度試合しても敗れてしまい、即刻、信綱に入門。
- 疋田が柳生に留まり指南役を務め、疋田が「もはや教える何物もなし」というまでに上達。
- 1571年 信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」を授かり、無刀の術を究め、「柳生新陰流」を創始。
- 今も残る一刀石は、宗厳が修行中に天狗と思い切りかかって切ったといわれる。
- しかしながら、豊臣秀吉の時代、1585年に豊臣秀長が、大和国に入り、太閤検地を行ったときに隠田を摘発され柳生家は全所領を失うことになり、一家は離散。柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔。(本当のところは、秀次との接触もあることから謎が残る)
- 改易された宗厳は、その後、入道し浮かばない舟という意味から「石舟斎」と名乗り、兵法に注力して活動する。
- 1594年 石舟斎 67歳の時に、兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の陣で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康が召抱えようとしたが、年老いていた宗厳(石舟斎)は辞退し、代わりに宗矩(末子:五男)を推した。
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柳生厳勝(としかつ)
石舟斎の嫡子であるが、大きな負傷で相続せず(尾張柳生となる利厳の父)
- 本来ならば後継者となるはずだったが、戦の怪我で身体が不自由となり、柳生家の後継ぎは、五男の宗矩となった。
柳生宗章(むねあき)
石舟斎の四男で武芸にも優れたが、米子藩の内部争で戦死する
- 宗矩と一緒に徳川家康のもとに行くという話もあったようだが、行っていない。
- 小早川秀秋に召し抱えられるが、小早川家が改易され、米子藩に客将として仕える。
- しかしながら、米子藩内部の権力争に巻き込まれ、吹雪の中、雪に刺した数本の刀で奮戦、18人の敵兵を切ったが、最後は刀が折れて戦死したようである。
柳生宗矩(むねのり)
石舟斎の五男、兵法にも政治も長けて、徳川三代の信頼を得る
- 柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられた。
- 徳川秀忠の兵法指南役となり、家光の剣術指南も行った。
- 大坂の陣では秀忠の側近となり、秀忠の陣に攻め入った敵兵(豊臣軍)足軽 7人(と言われる)を一瞬で撫で斬りにしたと言われる。(ちなみに、宗矩はその時初めて剣をふるい人を殺したと伝えられる。)
- その後、徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名となった(江戸柳生)。
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柳生利厳(兵庫助)(としよし/としとし)
厳勝の嫡子で、尾張柳生の元祖となる
- 柳生庄で石舟斎から新陰流剣術を徹底的に叩き込まれて育った。
- 関ヶ原の合戦後、加藤清正に仕官するが同僚を斬殺し逐電。
- その後、流浪10余年を経て尾張徳川家(藩主徳川義直)に仕官し、子孫は尾張柳生として兵法指南役を世襲。
- その後、幕末まで尾張柳生として継承される。
柳生三厳(十兵衛)(みつよし)
兵法に優れたが、最後は謎の死を遂げる
- 10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。
- 寛永3年(1626)家光の怒りに触れ、蟄居を命じられます。(家光の怒りの原因は定かではありませんが、酒癖の悪さという説もあります。)
- 10年前後にわたり江戸を離れ、柳生庄で兵法を研鑽。
- この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説もある。
- 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許され江戸城御書院番(将軍直属の組織)に就任。
- 寛永19年(1642)に、新陰流の知識をまとめた『月之抄』を執筆。
- 正保3年(1646)父・宗矩が死去ご、家光の裁量により兄弟間で遺領が分けられ、8300石を相続し、家督を継承(柳生藩2代目藩主とされています。)
- 慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します(死因は不明)
- 独眼のイメージですが、独眼ではなっかったようです。
- 柳生の里には、十兵衛が植えたという十兵衛杉が残るが、落雷により、枯れてしまっている。
柳生宗冬(むねふゆ)
十兵衛の弟で、十兵衛の死後、柳生宗家を継承する
- 十兵衛の死後、跡継ぎとなる嫡子がいなかったが、柳生藩の存続が認められ、弟の宗冬が柳生藩を継承することが認められた。(自身の領地は返上)
- 宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上の大名となり柳生藩の地位を回復させた。
- その後、幕末まで江戸柳生として継承される
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