奈良飛鳥の地は、「石の都」とも言われ、6世紀末から7世紀ころに造られた「謎の石造物」が数多く点在しています。その代表格的存在の一つである「酒船石」(「岡の酒船石」とも呼ばれますが、ここでは「酒船石」で統一します)は、古くから知られ、飛鳥時代の謎を投げかけ、そのなぞ解きを促すかのように存在しています。
ここでは、そんな「酒船石」を通じ、酒船石遺跡全体について 【三部構成】 で その謎に迫ってみたいと思います。
名付けて
『飛鳥の風を紡ぐ』・・・
采女の袖を吹きかえす風を思い浮かべながらまとめていきたいと思います。

この記事は、その【第一部】です。
第二部、第三部も順次アップしてきます。(現在執筆中)
ここは一体何?

それでは、その第一部として、酒船石遺跡全体に着目して、かの時代にこの地には、いったい何が造られたのか?・・・について
昨今の諸説を鑑みながら自分なりに想像を膨らませながら、まとめてみました。
まず、酒船石遺跡で見つかっているものを知っておきましょう。
当初は、「酒船石」が単独で知られていましたが、近年の発掘のより、この丘一帯に広がる遺跡が見つかり、酒船石遺跡として、ここが何の施設であったかの解明が進められています。
当初から史跡とされていた酒船石の名を継承し「酒船石遺跡」と呼ばれるようになっています。
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酒船石遺跡から発掘されたものは!
謎の石の一つとして認識されていた「酒船石」

酒船石は、飛鳥から藤原京、平城京へと、そして、平安京へと都が遷り、10世紀を過ぎたことろには、忘れ去られる存在になっていたのかもしれません。
その後、少なくとも江戸時代には、この「酒船石」の存在が知られるようになっており、1927年(昭和2年)に史跡に指定されています。
この時点では、酒船石遺跡の全容が分かっておらず、「酒船石」が謎の石の一つとして、何のために造られたかのかについて様々な説が提唱されてきました。
車石の発掘

1935年(昭和10年)には、酒船石から南10mの付近で、酒船石とともに使われていたであろうと思われる石が16個発掘されています。
車輪の跡のような溝が彫られているため車石(くるまいし)と呼ばれているようですが、実際にどのように使われたものなのかは、これまた分かっていません。
この石は、酒船石遺跡では、見ることができませんが、飛鳥資料館の庭に実物の一部が移設されており、そこで見ることができます。
石垣の発掘

1992年(平成4年)には、酒船石の丘陵で飛鳥時代の石垣が発見されました。
この石垣の下部には明日香産の花崗岩が基礎として並べられ、その上に今復元され見えている切石(天理市から奈良市にかけて分布する凝灰岩質細粒砂岩)が積み上げられて築かれています。
また、その後の発掘調査により、この石垣は、酒船石の置かれる丘陵を取り囲むように数段にわたって造られていたことも分かっています。
そして、丘陵の上部が平らに削られ、低い部分に土を層状に積み重ね、突き固める版築という大規模な工事が行われていたことも明らかにされています。
つまり、この丘陵は、人工的に盛土(場所によっては3m程度の盛土とも)を加えながら造成し、石垣が積まれた丘ということになります。

この発掘から、『日本書紀』斉明天皇条の「宮の東の山に石を累ねて垣とす」「石の山丘を作る」という記事に該当する遺跡である可能性が強くなっています。(後で詳しく紹介します。)
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亀形石造物の発掘

1998年(平成10年)には、石垣の発掘調査を進める過程で「亀形石造物」が発掘されました。

「亀形石造物」が置かれる場所は、周囲が石垣で囲われるように窪地に造られ、一帯(12m四方)が石敷きされていたことや、窪地の東側には、階段状になっている部分も見つかりました。
また、亀形石造物には、湧水施設(地下水から導水し、水を流す設備)として造られていました。

- 地下水脈からの湧き水を地上に導水する取水塔(井戸)
- 水を木製の樋(とい)で船型の水槽に流す
- 船型水槽で上澄みの(きれいな)水のが穴から、亀形石造物に流れる
- 亀形石造物では、亀の頭の部分に開けられた穴を通じ、甲羅の位置の窪みに溜まる
- 亀の甲羅の位置の窪みに溜まった水は、一定量を超えると、しっぽの方から流れ出て、北方の飛鳥池工房方向へ排水される
というように構成されています。
その他土器類
この一帯からは、土器なども出土しており、これらから7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されているようです。
現在までの発掘調査の概要は、以上ですが・・・
発掘内容と『日本書紀』に記される内容に整合性が見られ、この酒船石遺跡が何であったのかの解明が進んでいます。
では、その『日本書紀』の記述内容について紹介していきます。
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発掘内容と『日本書紀』の記述の整合とは!

これらの発掘調査と日本書紀の斉明2年の条(斉明天皇の在位は655-661年)に記される内容がほぼ合致しています。

このことから、「酒船石」の置かれる丘全体が、一つの施設として捉えられるようになっています。
では、日本書紀にどのように記載されている原文も見てみましょう。
日本書紀 斉明天皇2年の条の記述・・・
まずは、原文から
於田身嶺、冠以周垣(田身山名、此云大務)、復於嶺上兩槻樹邊起觀、號爲兩槻宮、亦曰天宮。時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。(若據未成之時作此謗乎。)

日本書紀は当時の漢文で書かれているので、原文では、難解なのですが、なんとなくニュアンスが感じられそうなのであえて原文を掲載してみました。

それでは、短く区切って対訳を置いてみたいと思います!
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対訳
於田身嶺、冠以周垣(田身山名、此云大務)、復於嶺上兩槻樹邊起觀、號爲兩槻宮、亦曰天宮。
< 訳 >
田身嶺(たむのみね)に、冠のように周囲を取り巻く垣が築かれた。(田身は、山の名前で、これを大務(たむ)と読む。)
- 「田身嶺(たむのみね)」は、現在の「多武峰」一帯の山々の中の一つの嶺と推定される。
- 「田身」の読み方の注釈として「大務」の字を当てている点にも注目。「大務」は、国家にとって大変重要なものを示す言葉でもあり、ここが重要な拠点であることを暗に示すものと考えられるという説もあります。
また、嶺の上の二本(両)の槻(つき)の木の辺りに高殿(宮殿)を建てた。これ(二本の槻の木)をもって「両槻宮(ふたつきのみや)」と呼ばれた。また、「天宮(あまつみや)」とも言われた。
- 「槻(つき)」はケヤキの木で,特にその大木は神が宿ると考えられていたようです。
- 道教(斉明天皇が信仰していたといわれる)では「天宮(あまつみや)」は、天帝あるいは、仙人たちが住んでいる天上の宮を意味するともいわれます。
そして、「天帝」は、「天地や万物を支配する最高神」であり、「雨や農作物の収穫を支配し、都市づくりを許可する存在」でもあるといいます。
時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。
< 訳 >
この時期(斉明天皇期)は工事が好んで行われた。水工に渠(みぞ:水路・運河)を掘らせ、その渠(水路)は、香久山の西から石上山にまで及んだ。
二百隻の船に石上山の石を積み、流れに順じて引いて運び、宮の東の山に石を積み重ねて、垣(石垣)とした。
- 「石上山」は、現在の天理市にある石上神宮の近くにある豊田山と推定されている。
ここでは、砂岩が採掘されており、酒船石遺跡で発掘された石垣もこの砂岩と同じものであることが確認されている。
時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。(若據未成之時作此謗乎。)
< 訳 >
この時の人々は(この工事を)謗(そし)って「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」という。
(水路造りのために)無駄に費やした工夫は 三万人余り になり、(さらに)石垣造りでも、無駄に費やした工夫は 七万人余り になるだろう。
宮材は腐って使えなくなり、山の頂が埋もれてしまった。
この他にも「石山の丘など造っても、すぐに壊れてしまうだろう」とも揶揄している。
(これは、工事をしている最中にこのように謗られていたのかもしれない。)
- 相当な大掛かりな工事(国家事業)であったことが伺えます。
- また、正式な国史である『日本書記』に、斉明天皇を謗るような記述をしている点にも少し違和感を感じます。(日本書記が成立したのは、元明天皇期であり、元明天皇の祖母にあたる斉明天皇に対する記述となりますが、このような記述を国史に残す意図があったのかもしれません。)
というものです。

なるほど!
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酒船石遺跡は、両槻宮なのか?!
この『日本書紀』に記される、「宮の東の山に築いた石垣」や「両槻宮(ふたつきのみや)」が「酒船石遺跡」である可能性が極めて高くなっています。
少なくとも「宮の東の山に築いた石垣」には、ほぼ間違いないようですが、「両槻宮(ふたつきのみや)」であったかどうかについては、まだ諸説あるようです・・・。
ただ、個人的には、宮の東の山に築いた石垣の上、まさにこここそが「両槻宮(ふたつきのみや)」であったのだろうと思いを馳せています。


でも、なんで?
酒船石遺跡は、両槻宮であると思う訳は・・・
(これはあくまで個人的な思いです。)
(1)二本の槻(つき)の木は、意図的に植えられた!?
先ほどの『日本書紀』の記述では、「両槻宮」は、「嶺の上の二本の槻の木の辺り」に建てられたとあります。

これを一般的には、「嶺の上にあった二本の槻の木のあった辺りに・・」と解釈されていますが・・・
二本の槻の木というのは、あったのではなく、
平らに整地した丘の上に二本の槻の木を「意図的に植えた」のではないかと思いたいです。
都合よく二本の槻の木が見つかったということも、無いことはありませんが・・・(また、その場合は、酒船石遺跡の場所とは別場所ということになるのかもしれませんが、可能性はいかに・・・)
(2)石上山の砂岩が使われた
そして、わざわざ大規模な水路工事をしてまで約12km離れた「石上山」(天理市布留に鎮座する石上神宮周辺の山)の砂岩を運びここに積み上げています。
これは、「石上(いそのかみ)神宮」は、鎮魂(みたまふり=衰えた魂をふり動かし、活力を与える呪術的な儀式)の社として、遅くとも4世紀後半ころから祭祀されており、その 石上山の神の力をこの地にも宿したかった からなのかもしれません。
(3)注釈で、ここが重要な地であることを暗示!?
これは、対訳のメモ欄にも書きましたが、「田身嶺(たむのみね)」の「田身」読み方を、「大務(たむ)」と注釈しているところにも少し着目してみます。(『田身山名、此云大務』)
一つ目が・・・この一帯の山を「田身山」(現在の多武峰から飛鳥に至る一帯の山)と呼び、そこに存在するいくつかの嶺の中で、重要度高いものとしてこの丘を「田身嶺」と呼んだのではないか・・・
また、田身嶺という呼び方は、それまでは、特にされていなかったのではないか・・・
ということです。

二つ目は・・・「田身」の読み方を注釈するさいに「大務」とい字を当てている点です。
単に読み方を示すだけでなく、「大務」という字をあえて使い、この漢字が持つ「大きな役目、特に社会的に重要で、大きな影響力を持つ場合」という意味合いを持たせたのではないか・・・
つまり、『田身山名、此云大務』という注釈の意味は、「田身は、山の名前で、ここ(田身嶺)は、国家の重要な施策を行う場所という」という意味合いを持たせていたということではないでしょうか。

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以上から・・・
「神の力を宿した石垣」、そして「神が宿るとされる槻の木」を配し、「両槻宮」(観)が築かれた。
これらにより、神あるいは仙人が住まう宮という世界観を造ったのではないでしょうか。
また、国家にとって重要な場所であるという意味を込めて「大務(たむ)」という字を使って「田身嶺」の読み方を注釈したのでは・・
などと想像が膨らんでいきます。
そして、その敷地に置かれたのが、「酒船石」・・・ということになります。
簡単なポンチ絵で、イメージしてみるとこんな感じかと・・・

※ 繰り返しになりますが、これは、私の個人的な想像も含まれています。
※ 石垣が、丘をグルっと囲っているように見えませんが、描画力の弱さによるものですのでご容赦いただき、イメージを膨らませて見ていただければ幸いです。

やっぱり、ヤバいですね!
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ここまでしてこの酒船石遺跡を造った意味は?!
ここまで、整理してみると、これほどまでの大事業を趣味や道楽でやるはずもなく(それこそ狂心)、国家の運営の中で、重要な意味があったことでしょう。
では、この時の国家の重要な意味とは何かについて少し考えてみます。
時代背景は・・
まず、日本書記から、酒船石遺跡が造られたのは、斉明2年。すなわち、656年です。
この前後の出来事を整理してみると
645年 | ・乙巳の変で中大兄皇子が蘇我蝦夷・入鹿を葬り、政局は混乱 (この時の天皇は皇極天皇=後に斉明天皇として重祚された同一人物) ・乙巳の変の後、皇極天皇は、孝徳天皇に譲位し、宮は飛鳥から難波へ (実権は、中大兄皇子が握っていたともいわれる) |
<これより、10年の時を経て・・・> | |
655年 | ・孝徳天皇の崩御に伴い難波宮から、飛鳥に宮を戻し、飛鳥板蓋宮で 斉明天皇として即位(→飛鳥宮跡についてはこちら) (実は、即位前から、孝徳天皇を難波に残し、飛鳥(飛鳥河辺宮)に 帰還していたとも) ・同年 飛鳥板蓋宮が火災で焼失し、川原宮(現在の川原寺跡)へ |
656年 | ・後飛鳥岡本宮(火災前の飛鳥板蓋宮と同じ地)へ ・宮(現在の飛鳥宮跡)の東の山に石垣を築く・両槻宮を築く ※ 飛鳥に宮を移し、間もなく宮の再建とともに、東の山の石垣や 両槻宮が造られています |
660年 | ・百済が唐と新羅によって滅ぼされてしまい、百済王族が日本に亡命 |
661年 | ・日本は、百済復興を目指し、救援派遣 ・斉明天皇も自ら九州に赴いたが、筑紫朝倉宮で病没 (天皇は、不在となるが、実質、中大兄皇子が天皇の位置づけ) |
663年 | ・日本は、2万7千人以上の兵を派遣し、唐・新羅連合軍と朝鮮半島の 白村江(現在の錦江河口)で戦い大敗、ほぼ全滅 ・これにより、唐と新羅が攻めて来るかもしれないという危機感から、 九州北部に、水城や大野城(おおのじょう)、基肄城(きいじょう) などの防衛拠点を築く ・一旦飛鳥に帰還 (中大兄皇子は、即位せず、飛鳥を離れることを模索?) |
667年 | ・中大兄皇子は、飛鳥から近江に都を移し、近江大津宮で天智天皇 として即位 |
といった感じです。
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では、何のために造られたのか?
本題の何のために造られたのか?です。
「国防施設」という観点では・・・
百済撲滅前の朝鮮半島の動乱を踏まえ、国防という観点で造られたという見方があります。
660年の百済撲滅前にも朝鮮半島では、戦乱が起こっており、日本にも戦いが及ぶという危機感を持ったことか、戦時下における行宮として、固堅な宮造りが急務であったといったところです。
石積みの工法が、中国や朝鮮半島の城の造り方にも類似しているという説もあり、城の役割を果たすものであったのではないかと。
だた、国防が主目的であれば、
亀形石造物のエリアは不要なようにも思えますし、
わざわざ石上山の砂岩(堅固なものでもない)を運んでまで使った
のかが疑問です。

「祭祀施設」という観点では・・・
天皇を中心とした国家として地固めをするための施設として造られたという見方です。
とすると、わざわざ石上(いそのかみ)の石を運ぶ意味も、亀形石造物(第二部で詳しく紹介)の意味についてもつながってきます。
孝徳天皇期の難波から飛鳥に都を移し、以前とは異なる進化した都づくりを急ぐという思いもあったかもしれません。その中で、国家の地固めとして国内や諸外国から来訪者に権威を示す必要があったり、天皇中心の政治を進めるうえで神聖な儀礼や祭祀の場(よりどころとなるような神格化した聖地)が必要であったとも考えられます。
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ここでの結論
私なりの結論としては、この両方の意味を持っていたのではないかと思います。
酒船石遺跡が造られた斉明天皇期、国内や朝鮮半島の情勢も不安定さがある中で政治を進める必要があったことでしょう。
飛鳥に都を戻した際に、以前(皇極天皇期)の飛鳥とは違う、世界情勢も踏まえ、技術面・文化面でも進化した国家としての都が必要だと考えたことでしょう。
酒船石遺跡は、そんな都づくりの一環として造られた祭祀・儀礼の施設であったのだと思います。

正式な国史(日本書紀)に、時の天皇を「狂人心」と謗るような記述がされているのは、逆に、それでも必要な工事であったといことを強調するためであったのかもしれません。
「狂人心」といわれた大規模な工事によって造られた運河(水路)は、都の物流を加速し、都の繁栄に寄与するものだったのかもしれません。
それらの工事は、飛鳥を華やかな都にするとともに、運河は、後の灌漑用水路や防御のための濠にも使えるように造ったとも言われています。

こんなことを考えていると、飛鳥の人々の活気や声が、
聞えてくるようです。
そして、斉明天皇期そして、天智天皇期の近江への遷都後に、再び飛鳥に都を戻した天武天皇期では、多少使い方が変わったのではないかともいわれています。
斉明天皇期 | 当初造られた斉明朝では神仙境に見立て神聖な祭祀や祈祷、占いが行われる 国家施設であったと考えられている。 雨乞いや疫病の退散の祈祷による国難をお祓いする、あるいは、国の決定 事項や行く末をも占い、神のお告げにより判断をすることもあったのでは ないか。 |
天武天皇期 | 天武天皇期には、地震により石垣がある程度の部分で倒壊した痕跡があります。 天武天皇は、ここを再整備して、大嘗祭・新嘗祭を営む大嘗宮とされたと考え られている。 |
その後 | 出土した土器などから7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが 分かっており、天武朝以降も、儀礼や祭祀が行われていたと考えられている。 |
などといわれています。
他にも見方があるかもしれませんが、自分的には、結構真実に近づけたのではないかと思えるような気もします。
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第一部のまとめ
第一部は、発掘された内容と日本書記の記述から酒船石遺跡とは何であったのかについて諸説を鑑みながら思いめぐらしてみました。
- 酒船石遺跡の丘全体が一つの施設であり。国家的儀礼祭祀が行われる場所であった。
- この丘は、周囲は3段程度の石垣で囲われ、最下層の尾根に囲まれるように石敷きの窪地が設けられ、頂上部には酒船石が置かれた。日本書紀に記される「宮の東の山」にあたる。
- 頂上部に、「両槻宮(天宮)」が建てられたのは、この丘かもしれない。
(諸説あるが、個人的には「両槻宮(天宮)」は、ここであったと思う。) - 大規模な工事は、時の天皇を「狂人心」と罵る声まで国史(日本書紀)に記されたが、あえて国史に記されたのは、国力を示す都市づくりをやり遂げることが重要であったことを伝えたかったためではないか。
- 儀礼・祭祀を行うための国家施設であったが、戦乱などの非常事態にも対処できる国防施設の役割を果たすものであったかもしれない。(その後、天武天皇期には、大嘗祭・新嘗祭を行う大嘗宮として使われたとも考えられる。)
だろう!というところまでです。
いかがでしたでしょうか。
皆様もいろいろと想像を膨らめながら飛鳥散策を楽しんでみてはいかがかと思います。
発掘調査や研究が、今後も継続的に進められ、さらに解明されることが楽しみです。
次は、【第二部】として、酒船石遺跡の見どころについて、少し詳しく紹介してみたいと思います。
さらに、【第三部】では、酒船石にフォーカスして実際にどのように使われていたのかについて語りたいと思います。
長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
酒船石遺跡へのアクセス
アクセス
所在地:高市郡明日香村岡
最寄駅:
近鉄「橿原神宮前」駅
近鉄「飛鳥」駅
バス(奈良交通):
明日香周遊バス
「万葉文化館西口」下車すぐ。
レンタサイクル:
自転車で飛鳥を巡るのもお勧めです。
バス(奈良交通):
明日香周遊バス
「万葉文化館西口」下車すぐ。
レンタサイクル:
自転車で飛鳥を巡るのもお勧めです。
基本情報
入場時間: 8:30~17:00
※冬季期間中(12月1日~2月末)は
9:00~16:00
入場料: 300円(亀形石造物を観る場合)
※ 石舞台古墳・高松塚壁画館・亀形石造物
の3施設の共通入場券は、700円。
駐車場:
隣接する万葉文化館の駐車場を利用(無料)
し、万葉文化館と合わせて、見学するのが
おすすめです。
Photos by Catharsis 無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2025
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