史跡 太安萬侶の墓 ~「古事記」を編纂した人物が眠る地 ~|画像たっぷり奈良

奈良市周辺(奈良県北部)
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「太安萬侶(おおのやすまろ)」は、日本最古の書物である『古事記』を編纂(へんさん)した人物です。
1979年(昭和54 年)に墓が発見され、実在したことが明らかになりました。
その 太安萬侶 の墓所に参拝してきましたので、ご紹介します。

太安萬侶(おおのやすまろ)の墓

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太安萬侶の墓は、1979年(昭和54 年)奈良市此瀬町の茶畑の中で、改植中に見つかりました。
奈良時代の火葬墓でした。

太安萬侶は、長年、実在した人物なのかが疑問視されていましたが、この墓から青銅製の墓誌(=埋葬者や略歴を記したもの)が出土し、実在の人物であることが明らかになりました。

茶畑の中にあり、お参りすることができますが、かなり行きにくい場所なので、このページでご覧いただき、関心を持たれた際に訪問してみてはいかがでしょうか。

また、発掘された墓誌と発掘時の墓のレプリカが、「橿原考古学研究所付属博物館」に展示されていますので合わせてご紹介します。

     

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太安萬侶(おおのやすまろ)について

  • 太安萬侶(生年不詳~723没)は、冒頭述べたように、「古事記」を編纂(へんさん)した人物で、墓誌から平城遷都のあった(元明天皇の時代)ころ、文官として平城京左京四条四坊に住んでいたことが分かりました。

平城京 四条四坊は、現在の奈良市情報図書館付近

と説明する文献もあるけど、

平城京の条坊の地図 からは、JR奈良駅の西口から

少し南側の三条大宮町付近ではないかとも思えます。

  • 「続日本紀」に載る位階、勲等、没年等も墓誌により確認されました。
    神武天皇の皇子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫にあたるようで、民部卿(民部省の長官)という役職であったようです。
  • 現在の 奈良県磯城郡田原本町多のあたりに居住していた豪族多氏の長で、壬申の乱(672年)において活躍した多品治(おおのほむじ)の子といわれています。
    (「おおの」の文字は「多」から、「太」を使うようになっています。)
       
  • 奈良県磯城郡田原本町にある多神社(おおじんじゃ)資料館には安万侶の御神像が安置されています。また多神社の東側の田んぼの中には、太安萬侶の墓と古来言い伝えられていた小さな塚もあります。
  • 「日本書紀」の編纂にもかかわったという説もあります。
    (時代的にも、関わっていてたと考える方が自然ではないでしょうか。)


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太安萬侶の墓 画像ギャラリー

画像を「クリック」すると大きく見られます。
スマホでは、タップで拡大後、「スワイプ操作」で次の写真が見られます。

撮影:令和 3年 11月

Photos by Catharsis  無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2023


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画像ギャラリーの補足

入 口

細い道沿いに墓所に向かう階段があります。
画像右側にあるトイレが目印です。

     

墓所に向かう道からの風景

周辺は、茶畑に囲まれています。ギャラリーでは、墓所に向かう道すがら(かなりの急坂の所もありますが)撮影した画像を置いています。

     

太安萬侶の墓所

墳丘は、直径4.5mの円墳と推定されているようです。

     

発掘時のレプリカ(橿原考古学研究所付属博物館)

こちらが、橿原考古学研究所付属博物館に展示されている発掘時の墓のレプリカです。墓穴には木炭で覆われた木櫃が納めてあり、その中に火葬された骨と真珠4顆(か)が納められていたようです。

     

墓 誌(橿原考古学研究所付属博物館)

発掘された青銅製の墓誌です。墓誌には太安萬侶の名前のほか、位階や勲位、生前の住所、亡くなった日付などが刻まれています。

表記内容は、「左京四条四坊の従四位下勲五等である太朝臣安萬侶は、癸亥年を以て七月六日に死亡し、養老七年(723年)十二月十五日に埋葬された」という意味のようです。

書かれている死亡日の「癸亥年」は、60年という意味のようですが、太安万侶が60歳くらいであったということが書かれているのではないかと勝手に想像していしまします。

いずれにせよ、これにより、埋葬者が太安萬侶であり、平城京左京四条四坊(現在のJR奈良駅に隣接する西側付近だと思います)に住んでいたことも明らかになりました。

住んでいた 左京四条四坊のおおよその場所(「平城京(条坊)」について)は、こちら で詳しく書いています。


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「古事記」と「日本書紀」について

太安萬侶の墓所のお参りを機会に、現存の日本最古の書物である「古事記」と、並びにそれとほぼ同時期に編纂された国の正史「日本書紀」について興味が湧き、整理してみました。


「古事記」は、712年に、「日本書紀」は、その8年後の720年に完成しています。
どちらも、世界のはじまりから神々の出現の神話から天皇家の継承が記される歴史書です。
また、いずれも、天武天皇が命を出したのが編纂の始まりと言われますが、完成は、天武天皇崩御(686年)から、約30年、40年と後のこととなります。

当時、「帝紀(ていき)」「旧辞(きゅうじ)」という歴史書が諸家に存在していたようですが、諸家ごとに異なる内容があったため、誤った内容が伝承されないように正し、一つにまとめ、国史としての書にする必要があるとの思いで命が出されたようです。

では、なぜ「古事記」と「日本書紀」の2つが存在しているのでしょうか?

国内向けに、天皇家の正当性を示すのが「古事記」で、諸外国(中国)にも向け、国家の公式な歴史を示すのが「日本書紀」という考え方があります。
「古事記」については、未だ謎が多く諸説あるようですが、いろいろな思いを広げながら改めて内容をしるのもなかなか面白いものがあります。

ということで、それぞれの特徴をいかに整理してみました。

   

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古事記

「古事記」は、712年に完成し、序文 と 上・中・下 の3巻からなります。
神代の創世神話から推古天皇(在位592~628)の時代までの歴史が物語調に書かれています。

編纂(へんさん)のはじまりと言えるのは、天武天皇が、卓越の頭脳で、なんでも覚えることができた稗田阿礼(ひえだのあれい<生没年不詳>)に命じて、 「帝紀(ていき)」「旧辞(きゅうじ)」 の誤りを正しながら誦習 (しょうしゅう)させる<憶えさせる>ことに始まりますが、天武天皇の崩御により中断してしましいます。
天武天皇が命じた時点では、書物としての完成は、意図していなかったのではないかという想像もしていまします。

そして、約30年後、元明天皇(在位707~715)の命により、稗田阿礼が存命の間に誦習した内容を書物に編纂されたのが、「古事記」となります。
その命を受けた編纂者が太安萬侶(生年不詳~723没)です。
序章には、太安萬侶は、命を受けてから、約4か月で完成させたともいう話もあるようです。

    

「日本書紀」が漢文で書かれているのに対し、「古事記」は、中国の漢字を使いながら、日本向けに書こうとされた崩れた文体の文章で書かれています。

そして、語部(かたりべ)が語るように、登場する神々や人々が物語としてドラマ仕立てに描かれているのが特徴です。
稗田阿礼が語ったのが物語調であったのか、太安萬侶が物語調に脚色して編纂したのかは知り得ませんが、出来事を物語になぞらえてに伝えようとした書物ではないでしょうか。

また、この時は、日本語の文字が発明されない時代であったため、その足掛かりとなるような取り組みではないかとも想像してしまします。

しかしながら、「古事記」は、広く読まれた形跡がないという見方もあるようで、天皇家の教育用とか娯楽用、あるいは、天皇家の支配の正当性を流布するために、天皇家と各氏族との関係性を明示し、天皇中心の国家体制を確固たるものとするために作られたのではなどなど、位置づけは、謎に包まれています。

また、江戸時代(1790~1822年<寛政2~文政5>)刊の本居宣長の「古事記伝」(古事記の注釈書)で世の中に広く知られるようになったようです。

あくまで想像ですが、もともとは物語仕立ての語り部で国内に広めたいという意図があったのかもしれません。


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日本書紀

日本書紀は、古事記の8年年後の720年に完成したもので、全30巻と系図1巻からなり天地開闢(てにちかいびゃく)から持統天皇(じとうてんのう)までが、時系列順に記録されています。
全30巻のうち、巻1・2は神話的性格の濃い「神代紀」で、巻3の「神武紀」以降「持統紀」までは、年月の順に歴代天皇が行ったことや歴史上の出来事が漢文で記されています。

編纂のはじまりは、681年に天武天皇(てんむてんのう)が、「帝紀(ていき)」および「上古諸事(旧辞と同じものと推定されます)」の編纂を川島皇子(かわしまのみこ)や忍壁皇子(おさかべのみこ)たちに命じたことに始まります。

対外的(対中的)に中国の歴史書にならった国家の成り立ちを示す国の正史といえる歴史書が必要だと考えられたのでしょう。

ただ、完成は、40年後の720年となります。元正天皇(げんしょうてんのう)の時代、天武天皇の子息である舎人親王(とねりしんのう)を中心につくられ、720年に奏上されました。

諸外国(特に中国)に対して国家としての日本の成り立ちを認めさせるためのものでもあり、漢文体で記されています。

また、「日本書紀」は、宮中において読書会が行われたという記録もあるようで、中央政府の官人の勉強にも使われていたとも考えられています。


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まとめ

  • 天武天皇は、稗田阿礼に正しい記録を誦習(しょうしゅう)させるとともに、正史とする日本書紀の編纂を川島皇子(かわしまのみこ)や忍壁皇子(おさかべのみこ)たちにも命じていることになります。
  • ただ、国家の成り立ちを権威づけるための正史は必要であったため「日本書紀」の編纂を進めたとして、これと合わせて、稗田阿礼には、 誦習(読んで覚える)させる命を出しているのも興味深いところです。
  • これが、事実か否かは分かりませんが、事実だとすれば、国内に向けては語り部として(日本独自の文字がまだなかったため?)広く知らしめたい、また、中国に対しては、漢文でと考えたのでしょうか?・・いろいろと想像が拡がります。

   

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太安萬侶墓所へのアクセス

アクセス

所在地:
 奈良県奈良市此瀬町451

最寄駅:
 近鉄奈良駅、JR奈良駅

近鉄奈良駅、JR奈良駅 より

バス(奈良交通):<田原方面>
 下水間行(122系統)、
 北野行(124系統)  
 「田原横田」(約 40分程度)下車
  徒歩(北方向へ) 約20分

基本情報

入場料:
   無料

駐車場:
   なし(路駐)

※ 車の場合、かなり細い道を通ります。

太安万侶の墓に登る階段付近の道幅が少し広く、短時間であれば、2台程度、駐車できそうな感じです。

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古事記が編纂されたのは、平城京の時代ですが、始まりは、飛鳥京の時代です。飛鳥京から藤原京、そして平城京へと遷都が行われ、律令国家としての日本が形づくられて行きます。


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