ここでは、酒船石遺跡の見どころについて紹介します。酒船石遺跡について紹介しているサイトは数多くありますが、より深く、楽しく、分かりやすく紹介していきたいと思います。
より分かりやすくするためにシリーズで投稿しています。第一部 では、酒船石遺跡とは ”何であったのか?!” について掘り下げてみました。
(まだ読まれていない方は、是非ご覧いただくと、より楽しんでいただけると思います。)
この第二部では、「見どころ」という観点で、酒船石遺跡についてまとめてみたいと思います。
飛鳥時代の遺跡で、謎の石といわれてきた「酒船石」(岡の酒船石)、そして、近年の調査で見つかった「石垣跡」(1992年)、そして、1998年に丘の下で「亀形石造物」と・・・飛鳥時代からのメッセージが届くように、発掘されました。
第一部に続き、飛鳥時代の空気を感じながら、お読みただければ幸いです。

酒船石遺跡の丘全体を一つの施設として見る!
見どころの一つ目です。それは、酒船石遺跡全体を一つの史跡として見ることです。
”「酒船石」はどれ?”、”これが「亀形石造物」なんだ~! ” といった個別の史跡を見るだけではなく、酒船石遺跡全体を知っておくと、より感動が高まります。

高まるぅ~!
日本書記によると、この酒船石遺跡が造られたのは、斉明2年(656年)ということになります。
これについては、第一部 で詳しく紹介していますが、
簡単にまとめると
酒船石が置かれるこの丘は、丘の周りをぐるりと3段ほどの石垣で囲うように工事され、その最上層に両槻宮(※)が建てられ、そこに「酒船石」が置かれたと考えられます。
(※両槻宮が、この地に建てられていたかについては、分かっておらず諸説があります。)
そして、丘の最下層には石垣に囲まれるような石敷きのスペースが造られ、その中央に「亀形石造物」が置かれました。
というものです。
これを頭に置いて、酒船石遺跡のそれぞの史跡を見ていきましょう。
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構成される3つの史跡
酒船石遺跡では、「酒船石」「石垣跡」「亀形石遺跡」の3つが観られます。
(このうち亀形石遺跡は有料ですが、その他は無料で見ることができます。)
- まず、「亀形石造物」から見ていきましょう。
- 次に、丘を登り、その途中で見られる「石垣」。
- そして、「酒船石」。
という順番がお勧めです。
では、順に紹介します。
亀形石造物

1998年(平成10年)には、石垣の発掘調査を進める過程で北側の山裾から「亀形石造物」と階段状の石敷き広場が発掘されました。発掘は、酒船石遺跡の中で、一番最近のものです。
ただ、現在、復元され、見えているのは、天武天皇期のもののようです。
では、初めに造られた斉明天皇期のものはどこに?!

実は、この石敷きには下層が存在し、それが、斉明天皇期のもので、亀形石造物は、今よりも低い位置(下層)に置かれていたようです。また、下層は、敷石の石が小振りであったようです。
第一部でも述べた通り、「斉明天皇期」と「天武天皇期」では、この丘の使われ方が多少異なっていたということも推定されていますが、” 祭祀の際の禊(みそぎ)が行わたのではないか ” という点では、共通します。

それでは、亀形石造物を見るポイントです。
亀形石造物が置かれている場所を見る!
「亀形石造物」が置かれる場所をよく見てみましょう。

- 三方を尾根に囲まれ、周囲が石垣で囲われるように窪地に造られており、閉鎖的な空間として造られている
- その一帯(12m四方)は、石敷きがされ、中央に、「亀形石造物」が置かれている
- また、窪地の東側には階段状に造られた部分がある
また、現場での確認はできませんが、
- さらに、掘立て柱の門のような建造物や塀の跡も同時に発見されている
- そして、その柱には、普通は使わないような皮付きの樫や桜の木が使用されており、祭祀色の濃い黒木の柱であったことも分かっている
などが、調査結果から分かっているようです。
つまり、この窪地は、「特別に区切られた閉鎖的な空間」であり、「酒船石の置かれる丘の上(さらに特別な場所)に通じる入口のような施設」ではないかという解釈も出ています。
これらから、亀形石造物の置かれる場所は、儀礼や祭祀の執行前に「禊(みそぎ)を行う」ための施設だと推測されています。

神聖な丘(神丘)に立ち入る前には、身を清めるということでしょう。
いかにこの丘が神域として扱われていたのかが伺えるものです。
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亀形石造物の構造を見る!
亀形石造物は湧水施設でもありました。
こちらも、第一部で紹介していますが、
次のように水が流れるように造られています。

- 井戸から地上に導水する取水塔:ここから水を得る(天武天皇期には機能しなくなっていたとも)
(取水塔をレンガ状の石は、石垣と同じ、石上の石<=神の力を宿す?>と考えられています。) - 船型石造物(小判型の水槽):上澄みのきれいな水を取る(濾過機能を持たせるもの)
- 亀形石造物(甲羅の部分が水槽):その水を、亀の体内(甲羅部)にあたる位置の溝に溜める
といった構成です。

亀形石造物だけでなく、構成するものそれぞれを見る必要がありますね。
亀形石造物が ” 亀 ” である意味を思う!
次に、なぜ亀がモチーフとされているのか・・・です。
それは、次のような理由なのでしょう。
- 亀は長寿のシンボルでもあり、道教の神仙思想につながっている
- 神仙思想で説かれる三神山の一つに「蓬莱山(ほうらいさん)」があり、その蓬莱山は、霊亀の甲羅の上にそびえ立つという伝説もある
- また、蓬莱山では、仙人によって不老長寿の仙薬がつくられるとされている

つまり、この丘を、神山と見立て、
亀(=霊亀)を形どった石造物を、丘を背負うような位置(麓)に置いた
というものです。
この説を知った際には、大いに共感できるものでした。
そう考えると、やはり・・・頂に置かれたのは・・・
「両槻宮(天宮)」ということになりませんか?!


そして、亀形の口の辺りで水を受け、体内に取り込むように胴(甲羅)の部分に水が溜まる構造とされているのは、「霊亀が、体内に取り込んだ聖なる水」という意味合いではないでしょうか。
まさに、
身を清める ” 禊(みそぎ)” のために聖なる水を得る神亀!
ということになりませんか!?

なんだか、それぞれの構成物にも神がかった演出が感じられる空間です。
恐るべし、亀形石造物!
なお、この亀形石造物のある施設は、少なくとも9世紀の平安時代までは見えていたといわれます。
ただ、当初あった湧水施設は早い段階で機能しなくなってしまい、桶で水を注いで使われたと考えられています。
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丘陵中腹の石垣

丘の麓から酒船石に至る小道を登ると中腹に石垣の痕跡を見ることができます。
これは、1992年(平成4年)に発掘された、砂岩を積み上げた石垣の一部です。
度重なる発掘調査によって、この石垣は、全長約700mにも及び、酒舟石遺跡の丘陵全体を取り囲むように造られたものであることも判明しているようです。
これは、
日本書紀の斉明天皇2年の条の
“ 斉明天皇が「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」とも揶揄された水路(運河)の造作工事をして、船を使って石上山(天理)の石を運び、宮の東の山に石を積み重ねて垣とした”
という記述と合致するものと考えられています。
(なぜ、このような石垣を造ったのかも含めて 第一部 で詳しく紹介していますので併せてご覧ください。)
この石垣は、
- この下部には、明日香産の花崗岩(硬く耐久性に優れる)が基礎として並べられている
- その上に、天理市から奈良市にかけて分布する凝灰岩質細粒砂岩の切石を積み上げて築かれている(つまり、切石は、日本書記に記される石上(現在の石上神宮の付近)の山から運ばれたもので、神の力を宿した石と考えられたのではないでしょうか。)
- この丘をぐるりと囲むように場所によっては3段~4段のひな壇状に積まれていた
というものです。
ただ、出土の状況から、積み上げられた切石は、天武天皇の13年(684年)に起きた白鳳南海地震によって斜面をずり落ちたものとみられています。
明日香村にある「飛鳥資料館」には、飛鳥京を復元したジオラマがあります。

そのジオラマで酒船石遺跡は、このように再現されています。
飛鳥散策の際には、この飛鳥資料館もおすすめです。
飛鳥についての知見がギュギュっと詰まっていて大変見ごたえあり、参考になります。
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酒船石

酒船石は、小高い丘の上の木々や竹やぶに囲まれた場所にあります。
明日香を代表する石造物のひとつで、少なくとも江戸時代から飛鳥の石造物としてその存在は世に知られていたようです。
ちなみに、「酒船石」と呼ばれるのは・・・
酒造りに用いたという説があったことから、「酒を造るための船形の石」ということで「酒船石」と呼ばれているといいます。
現在の「酒船石」

- 大きさは、長さ約5.5m、幅約2m、厚さ約1m(長方形に近い岩)です。
- 岩の上面は、平らに加工され、円や、楕円の窪みと、それらを直線の溝で結ぶ幾何学的な模様が彫られています。
- 岩の左右両端は、人工的に割られて欠損してしまっています。(欠損の部分は、安土桃山時代に、数キロメートル南にある高取城の築城の際に石垣に使われたという話もありますが、これも定かではありません。)
全体像が残っていないということも、ますますこの石の謎を深めることになってきました。

何とも意味ありげな幾何学的模様が彫り込まれていることから、
- 酒や薬、水銀朱など造るための道具(装置)
- 油を搾るための道具(装置)
- 砂金や辰砂(しんしゃ:朱色の顔料や水銀の材料)などを採集するための道具(装置)
- 鑑賞や遊戯(曲水の宴など)に使う流水施設
- 占いに使われる道具
などなど、いろいろな説が唱えられてきましたが決定的なものはありませんでした。
また、欠損部を復元すると、このようになっていたとも推定されています。


復元イメージでは、「丸い穴で終わってるという推定(1)」と、「丸い穴からさらに溝が彫られていたという推定(2)」があるようです。
このような復元研究からも、その用途は、解明に近づいてきているとも言えます。
昨今は、(2)の推定が有力で、「祭祀で何かを占うためのものではないか」という説が有力なようです。
私なりの結論としては、ここまで、第一部、第二部を通じて、まとめてきた内容から、
「酒船石」が置かれているのは、極めて神聖な場所(おそらく「両槻宮(ふたつきのみや)」)であることは、おそらく間違いない と思えています。
また、この時代、祈祷や占いは、重視される神聖な行事でもあったと考えられます。
日照り続き、あるいは疫病の蔓延など、国の危機に対応するため手段が、祈祷であったとも言えます。

であれば、
そのような場所に置かれ、使われる「酒船石」は、祭祀や祈祷の中で「占いに使われていた」と考えると筋が通るように思います。
そして、ここで行われる占いは、何かのお告げを受けるものであったかもしれませんね。

なるほど・・・
丘の頂で今も謎を語り掛ける酒船石・・・様々な角度から、この酒船石を眺めながら、ここで行われていたであろう情景を思い描いてみると飛鳥時代に誘われるようでもあります。
第三部では、さらに「酒船石」にフォーカスして、彫られた幾何学的模様が一体何で、どのように使われていたのかに迫りたいと思います。
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画像で見る「酒船石遺跡」
景観改善(竹の伐採など)により、丘の上の酒船石付近からも亀形石造物のエリアが望めるようになっています。位置関係が分かりやすくなっています。
Photos by Catharsis 無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2025
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第二部のまとめ
第二部では、三つの史跡(遺跡)を中心に、酒船石遺跡の見どころをまとめてみました。
- 酒船石遺跡の丘全体を一つの施設であったことを念頭に置いて全体を見る。
- この丘周囲は場所によっては3段から4段の石垣で囲われ、最下層の尾根に囲まれるように石敷きの窪地が設けられ、頂上部には酒船石が置かれた。
- 頂上部には、「両槻宮(天宮)」が建てられたかもしれない(諸説あり)。
- 亀形石造物の置かれるエリアは、儀礼・祭祀、あるいはその前の禊(みそぎ)を行う施設であったと推定される。
- 酒船石は、占いに使われていたのであろう。
以上です。
最後まで、お読みいただきありがとうございます。
他の記事もご覧いただけるとモチベーションアップになりますので宜しくお願いします。
酒船石遺跡へのアクセス
アクセス
所在地:高市郡明日香村岡
最寄駅:
近鉄「橿原神宮前」駅
近鉄「飛鳥」駅
バス(奈良交通):
明日香周遊バス
「万葉文化館西口」下車すぐ。
レンタサイクル:
自転車で飛鳥を巡るのもお勧めです。
バス(奈良交通):
明日香周遊バス
「万葉文化館西口」下車すぐ。
レンタサイクル:
自転車で飛鳥を巡るのもお勧めです。
基本情報
入場時間: 8:30~17:00
※冬季期間中(12月1日~2月末)は
9:00~16:00
入場料: 300円(亀形石造物を観る場合)
※ 石舞台古墳・高松塚壁画館・亀形石造物
の3施設の共通入場券は、700円。
駐車場:
隣接する万葉文化館の駐車場を利用(無料)
し、万葉文化館と合わせて、見学するのが
おすすめです。
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