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菅原天満宮 ~ 道長公ゆかりの地・延喜式内社最古の天満宮~|画像たっぷり奈良

奈良市周辺(奈良県北部)

藤原家発祥の地であり、道長公誕生の地ともされる奈良市菅原町に鎮座する菅原天満宮。
こじんまりとした境内ですが、菅原家一系三神が祀られる最古の天満宮です。ここでは、菅原家や道長公にも触れ、菅原天満宮の紹介をしています。

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菅原天満宮の概要

天満宮といえば、菅原道真公を祀る天神信仰の神社で、福岡県の太宰府天満宮、京都府の北野天満宮が有名ですが、天満宮は全国に1万2000社に及ぶとも言われています。
その中で、奈良市の菅原町(菅原家ゆかりの地)にある菅原天満宮は、創建は不詳ですが、菅原家一系三神を祀る延喜式内社 日本最古の天満宮です。また、道真公の生誕の地とも言われています。

お祀りされている「菅原家一系三神」

  • 天穂日命(あめのほひのみこと)
  • 野見宿禰命(のみのすくねのみこと)
  • 菅原道真公

      

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菅原天満宮の画像ギャラリー

 画像を「クリック」すると大きく見られます。
 スマホでは、タップで拡大後、「スワイプ操作」で次の写真が見られます。

撮影:2021-2022年

Photos by Catharsis  無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2024


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菅原天満宮の拝観どころ

境内

拝殿・祝詞殿・本殿

拝殿、祝詞殿、本殿が一直線に並び正面からは、一体に見えます。

     

牛の像

拝殿前には、左右に合わせて 7体の伏した牛の像が並びます。

左手には、手水、土蔵、筆塚があり、右手には、庶務所が置かれる小ぢんまりとした境内です。
拝殿の両側には、末社が鎮座しています。

     

筆塚

筆塚は、古い筆を社頭に納め、文筆の神である道真公を偲ぶもので、3月21日(春分の日)には筆の始祖の蒙恬(もうてん)将軍に感謝の意を表する「蒙恬祭」が行われ、境内筆塚では、古筆を焚き上げて毛物の霊の供養を行う「筆まつり」が行われます。

     

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境内周辺のゆかりの地

菅原天満宮遺跡天神堀(菅公の産湯の池)

菅原神社を出て、東側に少し住宅地を歩くと、この池があります。この池は、菅原院の一部であったようで、道真公の産湯の池と伝えれています。
(生誕地は、ほかにも説があるようですが、道真公の母君が京都からこの菅原の故地に帰参して産み賜うたものと伝えられる)

     

菅原はにわ窯跡公園

さらに、東(近鉄電車の線路寄り)に向かうと、菅原はにわ窯跡公園があります。
菅原家の祖先といわれる、野見宿禰命(のみのすくねのみこと)が、菅原の地を本官とし、土師器(はじき)や埴輪の製作していたといわれています。
発掘調査で、ここに埴輪を焼いた窯跡が発見されています。

     

年中行事


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菅原家の歴史

  • 菅原家は、代々学問の家系とされますが、もともとは、「天穂日命(あめのほひのみこと)<=天照大神の子神>」は菅原家の始祖とされる
  • その子孫の「野見宿禰命(のみのすくねのみこと)」が、菅原の地を本官とし、土師器(はじき)や埴輪の製作をしてた
  • 垂仁天皇の皇后(日葉酢媛命)が崩御された時、殉死を取り止め、埴輪を埋めることを進言し、その功績により、垂仁天皇より土師臣の姓を賜る
  • 土師氏はここを本拠地とし各地に勢力伸展
  • また、「野見宿禰命(のみのすくねのみこと)」は、相撲の起源となった人物でもある
    (垂仁天皇の宮があった纏向(まきむく)遺跡<奈良県天理市>の一画には、「野見宿禰命(のみのすくねのみこと)」が相撲を取った場所とされる相撲神社があります。)
  • 781年(天応元年)には、土師家の子孫の土師古人他が、この土地の名「菅原」への改姓を願い出、勅許される
    「菅原」は、平城遷都以前から存在していた古代地名で、『日本書紀』によれば、「推古天皇十五年に菅原の池を作る」とあり、この池は西方の蛙股池と考えられる
  • その後、学問の家系として、三代後に「菅原道真公」の出生となります。

     

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天満宮と道真公

天満宮といえば、学問の神様として道真公が祀られ合格祈願に多くの受験生が訪れる神社ですが、天満宮に道真公が祀れているのは、なぜでしょうか?について簡単にまとめてみます。

    

道真公の生涯

神童とたたえられ、政治の世界でも重用

  • 845年(承和12) 中級貴族の家庭に誕生
  • 菅原家の中でも「神童(しんどう)」と称されるほどその才能が際立つ
  • 5才にして和歌を詠み、その後、漢学(中国の古典や詩文)の研究に注力、18才にして文章生(詩文・歴史学の学生)の試験に合格
  • 40人近い文章生の中でも、優れた才能を発揮し、33才で文章博士(教授)となる
  • その後、父親が亡くなると、菅原家が経営していた私塾を運営

     

藤原氏の策略により、大宰府へ左遷

  • しかしながら、時の実権を握っていた藤原氏は、家系外の道真公が力を持つことが不快
  • そして、左大臣の藤原時平(ときひら)が、宇多天皇が醍醐(だいご)天皇に譲位(じょうい)したのを機に、醍醐天皇に「道真が、自らが政治の実権を握るために、醍醐天皇の弟を天皇にしようと企んでいる」というデマを上申
  • 901年(延喜元年) それを信じた醍醐天皇は、道真を大宰府の大宰権帥(だざいのごんのそち)として、流人のような扱いで大宰府(福岡)に左遷
  • これを機に、道真公は文筆に励み、とくに晩年は、類従国史二百巻を編纂(へんさん)し、多くの史書や詩歌の書を記し、博学ぶりを発揮
  • 903年(延喜3年) 濡れ衣を着せられた道真公は、失意の中、大宰府で病死
    自分を陥れた京には埋葬しないで欲しいという遺言を残したという

     

牛の像が置かれるのは

大宰府からご遺体を牛車で運ぶ途中で、不思議と牛が伏せて動かなくなる
これを道真公のご意思によるものとらえ、道真公をそこに埋葬

このことから、道真公を祀る神社には、

「伏した牛の像」が、置かれるように

なったといいます。
また、菅原天満宮では、道真公が牛に乗って太宰府に流されたという故事にちなむという説明がされています。

905年(延喜5年) この埋葬された場所の上に祀廟(しびょう)が建てられ、さらに、919年(延喜19年)には勅命により立派なご社殿が建立されます。
これが後に「大宰府天満宮」となります。


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怨霊として恐れられた道真公

908年(延喜8年)藤原菅根が雷に打たれて落命
909年(延喜9年)道真公を陥れた張本人の藤原時平も病死
913年(延喜13年)源光(道長を失脚させた張本人の一人)が鷹狩りの最中に
泥沼に転落して溺死
919年(延喜19年)道真公の祟りと恐れられ、これを鎮めようと勅命により
「道長公の墓所に社殿を建立」
(これが、「大宰府天満宮」となります)
923年(延喜23年)日照りや水害、疫病が続く
時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた皇太子 保明親王が満19歳で死去

恐れをなした、醍醐天皇は、道真公の官位を元の右大臣に戻し
正二位を追贈するととともに、道真公を左遷した昌泰四年(延喜元年)
詔を破棄

また、元号を「延長」に改元
925年(延長3年)保明親王と時平の娘との間に生まれていた慶頼王(よしおりおう)が
満3歳で死去
930年(延長8年)清涼殿で、雨乞いの実施について会議中、突然雷雲が広がり、
雷が清涼殿を直撃
・これにより、大納言民部卿の藤原清貫は衣服に燃え移った火に
 焼かれて即死
・右中弁(太政官右弁官局の次官)内蔵頭の平希世も顔を焼かれて
 程なく死亡
さらに、隣の紫宸殿にも雷が落ち右兵衛佐の美努忠包、紀蔭連、
安曇宗仁のほか、警備の近衛兵2名も死亡

この「清涼殿落雷事件」直後から醍醐天皇の体調も悪くなり、
同年、醍醐天皇は、皇太子の寛明親王に譲位(朱雀天皇)し、
その7日後に出家するが、その日に崩御
947年(天暦元年)道真の死後、約40年を経て、道真の祟りを解き、都を守護
する社として、火神、雷神がお祀りされていた京都北野の地
に道真を祀る社を建立
(これが「北野天満宮」となります)

   

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  • 道真の死後、道真公の祟りと恐れられて事件が連発
    一説には、道真公が、埋葬された日に、都(京)の御所に落雷が発生したとか、道真公が死んでまもない夏の夜、比叡山の僧侶のもとに道真が現れて「怨みを晴らす」と告げたともいわれます。

以下、祟りと恐れられた出来事の数々です

このようなことから、天候を操り、火神、雷神を操る天神さまと同化し、「道真公の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」と考えられたり、道真公の死後に授けられた神号(道真公にその神号を授けるようにお告げがったとも言います)の「天満大自在天神」から、「天満」の名の由来とも言われます。

いかがでしょうか。
畏るべし、道真公。

当時は、これだけ続くと、当時、道真公の祟りと、

心底信じられたことでしょう。

・・・でも、本当かもしれませんね。

このようなことから、道真公は、「日本三大怨霊」と言われるひとりでもあるんですね。

「日本三大怨霊」とは

菅原道真公は、このようなことから、「日本三大怨霊」とも言われています。
「日本三大怨霊」は、「平将門(たいらのまさかど)」、「崇徳(すとく)天皇」と「道真公」です。

     

国家の平安が祈念される対象に

  • その後、藤原氏により大規模な社殿が造営され、987年(永延元年)には、一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念される
  • 道真公の無実は証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位が贈られ、「天神さま」と崇められるようになり、「北野天満天神」の神号が認められる

     

そして、学問の神様へ

  • 近世では、怨霊の側面が薄れ、「学者としての優秀さ」が着目され、「学問の神」として祈願の対象となる

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菅原天満宮へのアクセス

アクセス

所在地:
 奈良県奈良市菅原町東1-15-1

最寄駅:
 近鉄 大和西大寺駅、近鉄 尼ヶ辻駅
 

近鉄 大和西大寺駅、近鉄 尼ヶ辻駅 から

いずれも 徒歩 約 15分

バス利用(奈良交通)

近鉄 奈良駅、JR 奈良駅(西口)から

・学園前駅(南)行
 「阪奈菅原」下車 徒歩 約 5分

近鉄 学園前駅(南口)、近鉄 あやめ池駅 から

 ・近鉄 奈良駅行
  「阪奈菅原」下車 徒歩 約 5分
 ・阪奈菅原 行
  「菅原天満宮」下車 すぐ

 

基本情報

社務所受付時間:
  9:00~16:00

拝観料:
  境内入場は、無料

駐車場:
  有(無料)

※ 詳細は、公式ページをご覧ください。

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近隣の見どころ

近鉄 西大寺駅から徒歩15分程度の所に位置します。西大寺駅付近には「西大寺」、菅原天満宮近くには、かつて「菅原寺」と言われた「喜光寺」があります。また、平城宮跡、薬師寺、唐招提寺なども付近のエリアにあります。かつての平城京の左京で菅原家ゆかりの地のためか、天満宮の末社もいくつか鎮座しているのも興味深いところです。

左京エリアの著名なお寺

     

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