謎めいた石造物が多く見られる明日香村・飛鳥地区ですが、猿石もその一つです。
猿石は、欽明天皇陵(梅山古墳)と隣接する吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)の墓域に4体並んでいます。
猿石の奇怪な姿の意図するところは、分かりませんが、独特の表現が気になる石造物です。
これが「猿石」
Photos by Catharsis 無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2024
猿石は、現在も、吉備姫王墓を取り囲む柵の中の正面付近に西向きに4体が並んでいます。
それぞれ高さは1メートル前後です。
猿石と呼ばれますが、猿というイメージとは、ちょっと異なる気がします。
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江戸時代(元禄期)に発掘
この4体は、一旦、行方知れずとなりますが、江戸時代に欽明天皇陵の南側の字イケダの水田から掘り出され、天皇陵に置かれていたようですが、後に(明治5年)に吉備姫王墓内に移されています。
この奇怪な彫刻が、何のために造られたのかは、まだ分かっていません。
行方が分からなかった時代も・・
- 今昔物語集(平安時代末期に成立したと見られる<正確な年代、作者不詳>説話集)には、軽寺(現在の奈良県橿原市大軽町にある法輪寺(軽寺跡)か?))の近くにある石の鬼形と記されているようですが、それ以後、行方不明となっていたようです。
- そして、元禄時代に再発見されて評判になったといいます。
- 江戸時代に描かれた猿石の姿も残されているようです。
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猿石のここが、ユニーク!
4体には、向かって左から「女」「山王権現」「僧」「男」という名前が付けられています。
これは、それぞれの特徴から、そのように後付けで名付けられたもののようです。
なんでこんな表現を彫刻に?

少し、えぇっ!と感じるのは、「女」、「山王権現」の2体は、性器を露わにしたと解釈できるもの(というか、そのもの)が表現されている点です。
”何を表現したかったんだ~い?? 飛鳥時代の人よ!” と叫びたくなります。
しかし、その後ろから見た姿には、別の顔が彫られているのです。
猿石の後面にはもう一つの顔が・・
墓域には、石の柵がめぐらされ、立ち入りができないため、後面からは見にくいのですが、実は、4体の内、3体の猿石には、後面に、もう一つの顔(姿)が彫られています。
・・現地で見る、猿石は、少々スピリチュアルさがあります。

えぇっ、そうなんですか!?

是非、知っておきたいポイントです!
猿石の前後二面の顔を持つ姿は、ローマのヤヌス神(前と後ろに2つの顔を持ち、門の守護神)と同じような思想で ”何かの境界を守る役目を果たすもの” なのではないかと考える説があります。

飛鳥地区で、二面を持つ石造物では、橘寺の「二面石」が、知られていますが、この猿石も二面のものがあるんですね。
善と悪の二面性を表すものとされる橘寺の二面石も同様の思想なのかも・・と勝手に想像するところです。
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4体の猿石の詳細
それでは、4体の猿石について、後ろの姿も合わせて、もう少し詳細に紹介してみたいと思います。
ただ、先ほども述べました通り、猿石が置かれている吉備姫王墓は、石の柵で囲まれており、猿石の背面は、見にくい状態にあるため、実物と共に近隣にある「飛鳥資料館」の庭に置かれるレプリカを撮影したもので紹介します。
猿石(女)
<飛鳥資料館の展示から>

先ほどの江戸時代に描かれた猿石の一つですね。
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猿石(山王権現)
この石像(手前)は、「山王権現」と呼ばれています。
山王権現は、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神ですが、この猿石がなぜ山王権現と呼ばれるかはよくわかりませんでした。
<飛鳥資料館の展示から>
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猿石(僧)
<飛鳥資料館の展示から>
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猿石(男)
<飛鳥資料館の展示より>
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この他にも・・・
高取城入口に置かれる猿石も、もとは、この4体と同じ場所にあったもので、高取城の築城の際に、石垣材として運ばれる途中に、現在の所在地に置かれたものと推定されています。
一番、猿っぽい感じです。
この猿石の実物が置かれる場所には行けていませんが、高取城も戦国時代の山城の史跡として思いを馳せられる場所です。
いつ頃、何のために造られたものなの?
謎の石造物といわれる通り、いつ造られたのかも、何のために造られたのかも特定できていない状態です。
が、諸説には以下のようなものがあります。
塔を守護する像?
- 百済益山(朝鮮半島)の弥勒寺跡の西石塔の四隅に置かれた石人像とも類似しているようです。このことから、7世紀後半頃に同じような目的で百済工人の技術が使われて作造されたのではないかという説があります。
- 塔やそれに準ずる建造物を守護するための像ということになりますが、何を守護していた?・・かを比定できるものは不明です。
渡来人の姿をモチーフとしたモニュメント?
- また、この当時、仏教、鉄器、機織り、土木など当時最先端の学問や技術の伝道者、また亡命者として中国や朝鮮半島から多くの渡来人が飛鳥に移住していたと言われています。
- その渡来人の姿を、モニュメントして残したのでは?というものです。
(迎賓館のような施設のモニュメントとして置かれていたもの?・・・のようにも感じます。)
梅山古墳の墓域を示す標石?
- 梅山古墳の墓域を示す標石としての置かれたという説もあるようです。
- 梅山古墳が造られた時期から、改築された時期に置かれたとすれば、6世紀後半から7世紀前半となるのでしょうか?・・・可能性が、無いわけではないように感じます。
- 二面を持つ彫刻は、何かの領域の境界を示すもののようにも感じ、発掘された場所からも、この可能性はあるかもしれません。でも・・・そうだとすれば、裸体の像は、必要だったのでしょうか・・・もう一つすっきりしないところです。(子孫繁栄をねがうもの?・・でしょうか。)
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猿石が所在する古墳
最後に、欽明天皇陵(梅山古墳)と吉備姫王墓についても簡単に紹介しておきたいと思います。
今まで記載した通り、4体の猿石は、明日香村(奈良県)の欽明天皇陵に隣接する吉備姫王の墓域に置かれています。
欽明天皇陵(梅山古墳)
陵名は、檜隈阪合陵(ひのくまのさかあいのみさぎ)。
梅山古墳と呼ばれ、全長約140m、後円部径72m、前方部107mで、墳丘は、3段築成で周濠を持ち、明日香村内では唯一の前方後円墳です。
- 欽明天皇<509年? – 571年:第29代天皇>のころには、百済から仏教が正式に伝わるなど、後に開花する飛鳥文化の源ともなる時代でもあったと言えます。
- 「日本書記」によれば、欽明天皇は、571年(欽明天皇32年)4月になくなり、9月に「檜隈阪合陵」に埋葬されたとあるようです。
その後、欽明天皇の妃で、堅盬媛(きたしひめ)<推古天皇の母>を612年(推古天皇20年)に合葬し、620年(推古天皇28年)10月には砂礫を檜隈陵の上に葺き、土を積みて山を成し、大柱を土の山の上に建てさせるという記録が見られるようです。
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吉備姫王墓
ここに、4体の猿石が置かれています。中には、入れませんが、柵の外から猿石を見ることができます。
- 「日本書紀」によれば吉備姫王は、643年(皇極天皇2年)になくなり檀弓岡に葬られたとあり、墓名は「檜隈墓」と称されています。
- 「延喜式(えんぎしき)」の諸陵寮には、欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されていることから、ここが吉備姫王墓に指定されています。
吉備姫王(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ)<生年不詳 – 643年>は、欽明天皇の皇子であるの桜井皇子の王女(母は未詳)です。(すなはち、欽明天皇の孫です。)
茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子)の妃となり、宝皇女(後の皇極天皇・斉明天皇)・軽王(後の孝徳天皇)の生母でもあり、吉備島皇祖母命(きびしまのすめみおやのみこと)の尊称を受けています。
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猿石へのアクセス
アクセス
所在地:
奈良県高市郡明日香村平田
最寄駅:
近鉄 飛鳥駅
徒歩:
約 5分
レンタサイクルなら
・近鉄 飛鳥駅 下車
付近のにレンタサイクル店より、自転車で
すぐ。
基本情報
拝観時間:
自由
拝観料:
なし
駐車場:
5台程度
(欽明天皇陵(梅山古墳)参拝用)
※ アクセスする道が、狭いのでご注意。
※ 飛鳥巡りには、レンタサイクルが
おすすめです。
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近隣の見どころ
飛鳥地区は、推古天皇から持統天皇(後に藤原京に遷都)までが、宮を築いた地で、その史跡や社寺が多く見られる地です。
猿石と共に、謎の石造物も数多くあるのは、飛鳥ならではではないでしょうか。
そんな飛鳥のスポットを紹介していきます。






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