「牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)」は、飛鳥時代の「八角墳」で斉明天皇、間人皇女の御陵、「越塚御門古墳(こしづかごもんこふん)」は、大田皇女の御陵であるとみられる古墳です。
飛鳥時代に造られたその姿に復元され、タイムスリップしたように創建時の姿を目にすることができます。
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の概要
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概 要
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の築造年代は、埋葬施設の構造や出土遺物等から7世紀後半と考えられています。牽牛子塚古墳の方が先に造営されてことも分かっているようです。
牽牛子塚古墳は、飛鳥時代、史上初めて2度天皇(重祚)となった皇極・斉明天皇(女帝)とその娘で、孝徳天皇の皇后となった間人皇女(はしひとのひめみこ)が並んで眠る古墳であることの可能性が極めて高い古墳です。
残念ながら、鎌倉時代に盗掘に遭ってしまっていますが、七宝飾金具、玉類の副葬品の一部や夾紵棺(きょうちょかん)片、人骨などが出土しています。
また、宮内庁では、「車木ケンノウ古墳」(奈良県高市郡高取町)を斉明天皇陵と治定していますが、牽牛子塚古墳が真陵という見方になってきています。
飛鳥時代の姿を復元

飛鳥時代の天皇陵の象徴である、「八角形」の墳丘で、2022年(令和4年)3月より復元された姿が公開されています。
そして、この古墳は、創建された飛鳥時代の姿ままに見ることができるように復元されており、さらに、古墳周辺の地形も築造当時の地形になるように修景が行われ、まさに、飛鳥時代にタイムスリップしたような場所です。

江戸時代の山陵研究科、北浦定正の『松の落ち葉』や平塚瓢斎(ひょうさい)の『陵墓一隅抄』にその存在が記されており、江戸時代からその存在が認識されていたようです。
そこでは、「あさがお塚」と記されており、墳丘が朝顔の花びらのように多角形であったことからそのように呼ばれていたことから、アサガオを意味する「牽牛子」が名に充てられたといいます。
復元後、まだ時間が経過していないこともあり、磨かれた石面が新しく白く輝くような姿は、飛鳥時代の人々にも天皇権威を知らしめるものであったのではないかと感じます。
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牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の画像ギャラリー
撮影:2022年(令和4年)8月
Photos by Catharsis 無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2023
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牽牛子塚古墳・越塚御門古墳についてもっと知る
訪問される方も、関心を持たれた方も知ってワクワクする内容(そうあって欲しい)をまとめてみたいと思います。
きっと楽しいと思いますので、是非読んでみてください。
牽牛子塚古墳

7世紀後半に造られた古墳で、丘陵の頂部に位置しています。墳丘は三段築成で、版築を用いた対辺約22mの八角墳です。
墳丘斜面には二上山産の凝灰岩(ぎょうかいがん)切石が施されています。
石室内等からは当時としては最上級の棺である夾紵棺(きょうちょかん)片をはじめ、七宝製亀甲型飾金具やガラス玉、歯牙などが出土しています。
※ 出土品は、「飛鳥資料館」で見ることができます。
越塚御門古墳

さらに、牽牛子塚古墳の南東側に接した場所から新たな古墳は発掘され、大字と小字名から「越塚御門古墳」と命名されています。
越塚御門古墳は、版築を用いた一辺約10m程度の方墳と考えられています。
埋葬施設は石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん:通称 飛鳥石)の巨石を使用し、南に開口する刳(えぐ)り抜き式横口式石槨です。
石室内からは、漆膜や釘などが出土しています。
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日本書紀の記載と合致する古墳

『日本書記』天智天皇6年条に
「斉明天皇(さいめいてんのう)」と「間人皇女(はしひとのひめみこ)」が、合葬された小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)と、その陵前に「大田皇女(おおたのひめみこ)」を葬ったと記されています。

この『日本書記の』記載内容と整合性があるのが、
この両古墳なのです!
「牽牛子塚古墳」は、
- 古代の「越智岡(おちのおか)」に所在している
- 大王墓(天皇陵)のみに採用される「八角墳」である
- 埋葬施設が特異な構造である
ことから、『日本書記』に記されている「小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)」の可能性が高い古墳です。
また、それだけでなく、
「越塚御門古墳」は、
- 日本書紀の記載と合致するように、牽牛子塚古墳の前で見つかっている
ことから、また、埋葬施設の構造から、「越塚御門古墳」が、小市岡上陵の前にある大田皇女の墓の蓋然性が高いと考えられています。

日本書紀の記述の通りなんて
なんだか興奮してしまいます!
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の位置関係
模型広場が設けられている、模型をもとに、両古墳の位置関係を紹介します。
初めての参拝の際は、牽牛子塚古墳に目を奪われ、手前にある盛土で覆われた越塚御門古墳には気が付きにくいです。
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埋葬されていた人物について
斉明天皇(皇極天皇)・間人皇女とは
斉明天皇(さいめいてんのう)<皇極天皇(こうぎょくてんのう)>
(594年〈推古天皇2年〉- 661年8月24日)
- 舒明天皇の皇后でしたが、舒明天皇の崩御後に即位し皇極天皇(こうぎょくてんのう)となります。
- 皇極天皇として、乙巳の変(いっしのへん:蘇我入鹿を暗殺)を目の当たりにします。
(この出来事は、飛鳥宮(飛鳥板蓋宮)でのことです。) - これを機に、弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に譲位しますが、孝徳天皇の崩御後、再び斉明天皇(さいめいてんのう)として重祚(ちょうそ:2度目の即位)をします。
- 斉明天皇時代は、水と石による都づくりを進め、今も飛鳥には、この時代に造られた謎の石といわれるものが点在します。
間人皇女(はしひとのひめみこ)
(生年不詳 – 665年3月16日)
- 斉明天皇の娘で、天智天皇(中大兄皇子)、天武天皇(大海人皇子)とは兄妹、姉弟です。
- 皇極天皇が譲位し、天皇となった叔父の孝徳天皇(難波宮)の皇后となります。
- 難波京の時代、兄の中大兄皇子(皇太子)が孝徳天皇に飛鳥へに宮を遷すことを進言します。
しかし、孝徳天皇がこれを受け入れなかったため中大兄皇子らは、孝徳天皇を残し、飛鳥に戻ってしまいますが、この時に皇后の間人皇女も中大兄皇子と行動を共にしています。
(この時の宮が「飛鳥稲渕宮殿跡」と想定されています。) - そして、斉明天皇の崩御後、中大兄皇子が即位するまでの約6年の間は、中大兄皇子の称制(天皇が在位していないとき、皇后、皇太子などが臨時に政務をとり行なうこと)で政務が行われてたといわれていますが、一時的に間人皇女が天皇の役割を担っていたのではないかと考える説もあるようです。

孝徳天皇、斉明天皇の時代も、皇太子であった中大兄皇子が
実権を握り、天皇を笠に政策を進めていたという見方があります。
間人皇女も中大兄皇子が政策を進める上で、一時的に笠としての
役割を果たしていたのかもしれません。
※笠:律令国家を進める上で、豪族や国民の政策上の不満を、
天皇へ向けながら改革を断行し制度を造り上げていくやり方
をイメージしています。
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大田皇女とは
大田皇女(おおたのひめみこ)
(生年不詳 – 667年(天智天皇6年)2月頃)
- 天智天皇の娘で、持統天皇の実姉で、斉明天皇からは、孫にあたる皇女です。
- 妹の鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ:後の持統天皇)と、姉妹で叔父である大海人皇子(天武天皇)の妻となり、大津皇子を儲けていますが、病に倒れてしまいます。
- 後に大津皇子(大田皇女が存命であれば、皇太子であった)は、天武天皇の後継者候補の一人でもありましたが、天武天皇の崩御後に謀反の疑いを掛けられ失脚してしまいます。
これは、天武天皇の崩御後に実権を握っていた皇后(妹の鸕野讚良皇女(後の持統天皇))が、実子の草壁皇子を天皇につかせようとしたためという説もあります。
天皇系図と埋葬者
文字だけですと、埋葬者の関係が少しわかりにくかったもしれませんので、天皇の系図と合わせてみました。

なるほど、親子と孫という関係が分かりますね。
間人皇女が、斉明(皇極)天皇と同格のように、並んで八角墳に埋葬されているというのも興味深いですね。
やはり、一時的に天皇の役割を担っていたのでしょか?・・・謎です。
八角墳の意味するところ
八角に造られた飛鳥時代の大王(天皇)陵
八角墳は、舒明天皇の墓から始まっているとみられており、日本の大王(天皇)の墓に固有の型式の陵墓が考え出されたと捉えることができるようです。
八角形が天下八方の支配者(天皇を中心に八方あまねく国土を統治する)にふさわしい形と考え、大王(天皇)を他の有力豪族から隔絶した存在として位置づけ、中央集権国家の樹立を目指すものであったと考えられています。
そして、八角墳は、天皇が崩御後も国土の中心であることを示したものと考えらるようです。
約500年近く続いた古墳文化の最終段階に造営された八角墳は、天皇を中心とした国造りの過程を示すもので歴史上重要な位置付けと捉えられています。

牽牛子塚古墳は、八角墳の中で初めて復元整備され、
飛鳥時代の姿を現在に見ることができる古墳なんです。
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畿内で確認されている5基の八角墳
八角墳は、畿内で、宮内庁により天皇陵に治定されている古墳と、天皇陵の可能性が高い古墳を合わせて、5基確認されています。
この5基から、飛鳥時代の舒明天皇から文武天皇までの歴代天皇陵(孝徳天皇を除く)に八角墳を採用しているという見方がされています。
① 段ノ塚古墳< 奈良県桜井市>:宮内庁指定
宮内庁により、「押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)」として第34代舒明天皇の陵に指定されている古墳です。
② 御廟野古墳<京都府京都市山科区>:宮内庁指定
宮内庁により、「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇の陵に指定されている古墳です。
③ 野口王墓古墳<奈良県高市郡明日香村>:宮内庁指定
宮内庁により、「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」として第40代天武天皇・第41代持統天皇の陵に指定されている古墳です。
④ 中尾山古墳<奈良県高市郡明日香村>
第42代文武天皇の真陵とする説が有力視されている古墳です。
しかしながら、 宮内庁では、中尾山古墳より、ちょっと南側に位置する「檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)」が天武天皇陵に指定されています。
⑤ 牽牛子塚古墳<奈良県高市郡明日香村>
このサイトで紹介の通り、斉明陵の可能性が極めて高い古墳です。
(2010年9月、発掘調査に基づき、ほぼ、斉明陵で間違いないとみられています。)
その他にも・・・

上記の5基以外にも、畿内に八角墳であった可能性がある古墳があります。
⑥ 束明神古墳(つかみょうじんこふん)<奈良県高市郡高取町>
草壁皇子の真弓山稜の蓋然性が高く、八角墳とみられています。
⑦ 岩屋山古墳<奈良県高市郡明日香村>
方形墳の上に八角形の墳丘を営んでいた可能性があり、牽牛子塚古墳とも近い位置関係にあり、斉明陵という可能性もあるといわれる古墳です。
(ただ、発掘調査の結果からも斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が有力です。)
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牽牛子塚古墳・越塚御門古墳へのアクセス
アクセス
所在地:
高市郡 明日香村越
最寄駅:
近鉄吉野線 飛鳥駅
徒歩:約10分(※ 自転車で5分)
※ 飛鳥周遊には、自転車(レンタサイクル)がお勧めです。
(近鉄 飛鳥駅周辺にレンタサイクル店があります。)
基本情報
拝観時間:
自由拝観
拝観料:
無料
駐車場:
無し(公共交通機関推奨)
※ 公開されてから間もないため、近隣に
臨時駐車場が設けられていますが、
期間は不明です。
※ 台数に限りがありますが、
近隣(徒歩10分程度)にある
「道の駅飛鳥駅」または、
「アグリステーション飛鳥」の駐車場を
利用することもできます。
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近隣の見どころ
飛鳥京の跡地である明日香村周辺は、歴史に登場する人物のゆかりの地があり、見どころは満載です。古墳や社寺、史跡に石造物・・・のんびりとした空気が漂う中で、歴史にちなんだ地を思いを馳せて巡る楽しみがあります。
自転車(レンタサイクル)を使った飛鳥巡りがお勧めです。
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奈良公園と合わせて飛鳥散策へお出かけもおすすめです
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社寺参拝や史跡巡りには、奈良公園周辺で宿泊し、ここを拠点に奈良の魅力を満喫してみてはいかがでしょうか。
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