大安寺は、現在は、「がん封じ祈祷の寺」として知られていますが、飛鳥時代に初の官寺(国営の寺)として創建された歴史を持ち、平城京では朱雀大路をはさみ、東(左京)に、大安寺、西(右京)には薬師寺が置かれ、平城京を代表する 南都七大寺の一つの大寺でした。弘法大師空海が別当を務る時期もあったと言われてます。
現在は、全盛期の95%以上の境内を失い、小ぢんまりとしたお寺になっていますが、かつての大寺が偲ばれる地名が広範囲に残っています。 ここでは、旧境内を含めて紹介しています。
悪病難病封じ、がん封じのお寺として信仰を集めており、毎年1月23日、6月23日に行われる「笹酒祭り」では「笹酒」の振る舞いがあり、多くの人が訪れます。
大安寺の概要
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大安寺は、聖徳太子が平群郡額田部に「熊凝道場」を創建したことに始まります。
やがて「百済大寺」ー「高市大寺」-「大官大寺」と名と所を変え、平城京に移った後に「大安寺」となりました。
大安寺は官立寺院(国が造った寺院)として様々な役割を担う場であり、その役割の一つが、悪病難病封じでした。
現在も、悪病難病、そして最たる難病の「癌封じの寺」として信仰を集めています。
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飛鳥時代に始まる「大安寺」のすごい歴史
「熊凝道場(くまごりどうじょう)」

起源は、617年(推古25年)聖徳太子が熊凝村(くまごりむら)<奈良県平群郡>建てた「熊凝道場」といわれます。
「百済大寺(くだらのおおでら)」
639年(舒明11年)十市郡の百済川(くだらがわ)<現在の曽我川>のほとりに移建され、「百済大寺(くだらのおおでら)」となります。九重塔を持つ大寺であったといわれます。
- この時代、天皇は仏教に対してなるべく中立的態度をとりつづけていたようですが、舒明天皇により 天皇が建立する初めての寺院として造営が始まり、百済宮の造営もあわせて行われました。
- 百済大寺の造営は、聖徳太子の遺言によるものであったともいわれています。
- 桜井市吉備にある「吉備寺廃寺(古代寺院跡)」が、百済大寺の跡といわれています。
(舒明天皇の宮も百済宮に移されています。)
「高市大寺(たけちのおおでら)」(後に「大官大寺」に改称)
673年(天武2)高市郡に遷寺され「高市大寺(たけちのおおでら)」となります。
677年には、大官大寺と改称されます。飛鳥寺、川原寺とともに、飛鳥三大寺と呼ばれます。
- しかし移建された高市大寺がどこであったかは、確定されておらず、諸説があるようです。
- 天香久山北西にあったとみられる橿原市の「木之本廃寺」が有力とされるようです。
高市大寺から、大官大寺に改められたのは、677年、天武天皇よるものです。
「大寺(おおでら)」という名称は、私寺に対する官寺を意味し、また、「大官(おおつかさ)」は、天皇をさす言葉でもあります。
即ち、「大官大寺(だいかんだじ/おおつかさのおおてら)」は、天皇自らの寺として、国の安泰を祈る公の寺ということになります。
694年 飛鳥京から藤原京に遷都 本格的な都が造られます
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「大官大寺」(藤原京への遷都に伴い遷寺)
藤原京の遷都の後、699年に、文武天皇により「大官大寺」は、現在の明日香村大字小山、天香具山の南側に造立されました。
- 藤原京の造営に伴う造宮と造寺の一環で香具山の北西から南に移されたとも考えられています。
- 飛鳥寺、川原寺、そして薬師寺が加わり、藤原京内の四大寺といわれました。
- この地の出土遺物から、主要伽藍は全て藤原宮が営まれた時期の後期に造られたことが明らかとなっているようです。
- 現在も、田んぼの一画に「大官大寺跡」の史跡があります。
藤原京跡にある大官大寺跡
そして、710年 藤原京から平城京へ遷都が行われます
711年(和銅4年)<平城遷都の時期>に藤原京にあった大官大寺は火災で焼失した事が『扶桑略記』に記されており、発掘調査でも確認されています。
焼失した藤原京の「大官大寺」は、まだ、完成前であったともいわれています。
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「大安寺」(平城京に遷寺)
716年(霊亀2年) 平城京の左京六条四坊(現在の大安寺の場所)に遷寺されます。
- 「大安寺」の造営時期には諸説あり、718年(養老2年)に唐より帰朝した僧 道慈(どうじ)が進めたと考えられ、本格的な工事は729年(天平元年)以降とみられているようです。
- 745年(天平17年)に 天下泰平 万民安楽 を祈る大寺として「大安寺」と改称されたようです。
平城京では、藤原京と同様に、右京には薬師寺、左京には大安寺が置かれました。
平城京では、六条大路を挟み、六条から七条にかけて、東三坊大路に面する四坊の区画に位置しました。
現在は、小ぢんまりとした境内ですが、当時の大安寺は、南都七大寺の一つで、東西の七重塔を有する、約26万㎡(条坊の距離からも400m×650m程度と読み取れます)の広大な境内がありました。
(平城京の条坊については、こちら で説明しています。)
最盛期は、90棟程度の堂塔等を持つ寺院で、弘法大師空海や東大寺大仏開眼の導師を務めた僧として知られるインド僧 菩提僊那をはじめ、約900名近い学僧が在籍していましたが、度重なる災禍により、伽藍はすべて消失してしまいます。
現在境内は最盛期の約4%、約1万平方メートルを残すのみとなっており、奈良時代の仏像九体が今に伝えられています。
また、七重塔跡は、現境内の近くに史跡として基壇跡を見ることができます。
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大安寺の大伽藍をCGで再現するプロジェクトが進められました
そんなの中で、CGによって天平伽藍の大安寺を再現しようというプロジェクトが進められ、2022年の春には完成し、見ることができます。
(一部は、Youtubeで公開されており、その壮大さが伺えます。)
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大安寺の画像ギャラリー
撮影:令和 3年12月他
Photos by Catharsis 無断転載禁止 ©Catharsis 2021-2023
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大安寺の見どころ
大安寺の拝観は、現在の境内と合わせて、かつての大安寺の大伽藍に思いを馳せながら、周辺の大安寺旧境内を散策するがお勧めです。
旧大安寺の境内と現在の状況、散策マップを並べていますので、ご参考になれば幸いです。
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現在の境内
南 門

かつては、正面 約25m、奥行 約10mと平城宮の朱雀門に近い規模の大きな門が建てられていたようです。基壇が復元されており、中央に行かれた3つの階段と、基壇の上に柱の位置が表示されています。
その一部に現在の南門が置かれています。
中門跡

南門を入るとすぐに、中門跡の石柱が置かれています。
本 堂

本堂には、ご本尊として、十一面観音(天平時代:重要文化財)様が安置されています。
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嘶(いななき)堂

本堂の奥に二つの堂が並んでいます。右側に建っているのが、嘶堂です。
「馬頭観音(天平秘仏:重要文化財)」が祀られています。
左の堂は、「小子坊」で、写経・瞑想道場として利用されているようです。

また、嘶堂の周囲をぐるりと回るようにインド八聖地ならびに四国八十八ヶ所の各札所の砂を配した霊場の上を歩きながら触れることができるようになっています。
護摩堂

毎月、ご縁日に護摩祈願、話法が行われています。
讃仰堂(宝物殿)

天平時代の「不空羂索観音立像」「楊柳観音立像」「聖観音立像」「持国天王像」「増長天王像」「広目天王像」「多聞天王像」の7体(いずれも重要文化財)が安置されているほか、伽藍の縁起が記される天平の書物、出土した瓦などが展示されています。
境内で目に付く小さなダルマは?
境内には、小さなダルマが多く見られます。これは、「だるまみくじ」という おみくじで、だるまは一つひとつ手書きで書かれているようです。
笹酒まつりのときは、絵馬やごま木と一緒に「だるまみくじ」も並んでいます。

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八幡神社(元石清水八幡宮)
現在の大安寺境内から、東西塔跡に向かう道の途中に鎮座しています。
本殿の周囲には、取り囲むようにいくつかの末社が鎮座しています。
昨今は、パワースポットとしても挙げられているようです。
元石清水八幡宮は、807年(大同2年)8月17日 奈良 南都七大寺の一つである大安寺の鎮守として建立されました。
元石清水八幡宮HPより抜粋引用
石清水の名前は以前から男山にあったという、男山衆の主張と分けるために 元石清水八幡宮 の名前が生まれたと言われております。



東塔、西塔跡地
現境内から、南側に少し歩くと、かつての東塔、西塔があった遺跡があります。
東塔、西塔は、規模・構造は同様で、基壇の大きさは、一辺 21メートル の正方形で、塔は、七重で最下層(初重)屋根は、一辺12メートル四方であったようです。
興福寺の五重塔の初重は、8.5メートル四方、京都東寺の五重塔の初重で9.84メートル四方であることから、大安寺の塔の規模は、それ以上に大きな規模であったことがうかがえます。

西塔は、出土した瓦から、塔が建てられたのは、平安時代の初頭と考えられていますが、平安時代中頃に落雷により焼失し、以降再建されなかったようです。

東塔は、西塔に先立ち、奈良時代後半に建てられた可能性が高いようです。発掘調査で、鎌倉時代に焼失し、それ以降は再建されなかったようです。
東塔跡は、奈良時代の基壇の姿が復元されています。

かなり広いエリアに東西の塔が存在する伽藍で、現在も広く残されています。
かつての大安寺の規模の大きさが偲ばれ場所です。
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推古天皇社

大安寺の直ぐ横にある小さな末社です。
その名の通り、ご祭神として「推古天皇」がお祀りされています。
推古天皇社の歴史については不詳な点もありますが、大安寺の想定古地図(江戸時代)にも描かれており、かつての境内に鎮座してした社ということなのでしょう。
社の境内には、「弘法大師(空海)腰かけ石」が置かれています。
大安寺の境内に掲示される想定古地図(江戸時代)では、東側には「推古天皇社」、西側には、「聖徳太子社」が置かれています。
経楼跡地

大安寺を出て推古天社の前を北(東西塔と反対方向)に進んだ所に、小さな三角地帯があり、そこが経楼跡です。
(大安寺小学校の校庭の横です。)
御霊神社(元石清水八幡宮)

行教和尚(大安寺の僧)が、大分の宇佐八幡宮から大菩薩を勧請されたときに、お供えする御手水閼伽井(あかい)の水(=石清水)をここで掘らせたところ、法水が湧き出たと伝えられる場所です。この水は、男山石清水に通じていると考えられ、水を保護するために、タカオオカミノミコト(水の神)とゼンミョウリュウオウミコト(雨乞、水乞、止雨乞の神)の2柱の神が祀られています。

その井戸は、原形はとどめていませんが、現在も残っています。
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僧坊跡

経楼跡地から二股の道の大安寺小学校側の道を進むと、僧坊跡の基壇跡があります。
この辺りが、東側の中坊の北面にあたる場所となります。
かつての大安寺の伽藍は、ここまで続いて立ち並んでいたのかと思うと、その大きさが偲ばれます。
杉山古墳


僧坊後の基壇から更に北に、杉山古墳があります。
杉山古墳は、5世紀後半(古墳時代中期)に造られた前方後円墳ですが、奈良時代には大安寺の境内に取り込まれていました。
また、前方部の南斜面から6基の瓦窯(杉山瓦窯跡群)が見つかっており、これは、奈良時代末から平安時代にかけて、大安寺の修理に使用された瓦を焼いたものとみられます。
月、水、金が休園ですので、行く際は、注意が必要です。(9:00~17:00見学可 ※月、水、金と1月1日から3日は休園)
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主な行事
笹酒祭り
- 光仁会(こうにんえ)癌封じ笹酒まつり:毎年1月23日
- 竹供養・癌封じ笹酒夏祭り :毎年6月23日
光仁会(癌封じささ酒祭り)の起源について
桓武天皇が文武百官を伴い、先帝光仁天皇の一周忌の齋会を大安寺で営まれたという『続日本紀』の故事により、毎年一月二十三日に光仁会が行われます。
大安寺HPより抜粋
この法会は風雅な青竹づくしの祭儀で光仁天皇ゆかりの、「笹酒」の接待が行われます。「がん封じの笹酒」として、広く知られています。
秘仏御開帳
- 馬頭観音 :3月1日~3月31日
- 十一面観音 :10月1日〜11月30日

馬頭観音が拝める
嘶堂(いななきどう)
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アクセス
- 近鉄奈良駅、JR奈良駅から、大安寺行・シャープ前行・白土町行 路線バスにて「大安寺」停留所より徒歩10分程度
所在地 : 奈良県奈良市大安寺2丁目18−1
拝観料
大人:400円/【特別拝観・特別展】大人:500円
(境内は、無料で入れます。)
午前9:00~午後5:00 休み 12月30~31日
詳しくは、大安寺公式ホームページをご覧ください: http://www.daianji.or.jp/
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近隣のみどころ
大安寺周辺は、住宅地となっており、奈良の主な見どころらからは、少し離れている感じですが、JR奈良駅から、さほど離れておらず、かつての大安寺を偲びながら拝観並びに周囲の散策を楽しむことができます。
「大安寺境内」の他、「推古天皇社」「元石清水八幡宮(八幡神社)」「東西塔跡」「杉山古墳」「住宅地に点在する僧坊などの伽藍跡」「御霊神社」などを見ることができます。
「奈良公園」や西ノ京(薬師寺や唐招提寺などの平城京の右京)、平城宮跡などと合わせ、平城京ぐるっと巡りなどいかがでしょうか。




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